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「アウシュヴィッツ潜入記」書評 無法残虐見つめ極限であらがう

評者: 藤原辰史 / 朝⽇新聞掲載:2020年10月17日
アウシュヴィッツ潜入記 収容者番号4859 著者:ヴィトルト・ピレツキ 出版社:みすず書房 ジャンル:ノンフィクション・ルポルタージュ

ISBN: 9784622088301
発売⽇: 2020/08/19
サイズ: 20cm/54,386,40p

アウシュヴィッツ潜入記 収容者番号4859 [著]ヴィトルト・ピレツキ

 「あらがう」とは、どういうことか。究極的にはこの一点が本書の主題である。人の尊厳が失われた血まみれの無法地帯で、虐げられた者たちが人間性を取り戻そうとする行為に、どんな意味があったのか。
 ポーランド将校ピレツキが経験した驚嘆すべき三年間は、極限状態であらがうことの精神的、技術的、組織的な示唆にあふれている。
 手に汗握る展開に息つく暇がない。ピレツキは志願してアウシュヴィッツ強制収容所に潜入する。わざとナチスに逮捕され、アウシュヴィッツで囚人になり、親衛隊の拷問、シラミの大群、チフスなどの試練に耐え、しかも、厳しい監視下でポーランド人のレジスタンス組織を収容所内に作る。
 ポーランド人政治犯やソ連軍捕虜の大量処刑、ユダヤ人のガスによる殺戮(さつりく)などの情報を外部に流し、外部からの情報もつかむ。チフスに感染したシラミを培養し、親衛隊の外套(がいとう)に放つ。無線の送信機を製作し外部に情報を発信、武器や道具を集めて隠して、彼の高潔さと信心深さに惹(ひ)かれた同志たちとともに、強固な地下組織を作り上げるのだ。
 だが、蜂起の指令は来ない。武器も空輸されない。連絡も次第に疎(そ)に。業を煮やしたピレツキは、収容所から仲間二人と、仕事で訪れた町のパン工房の扉をこじ開け脱出する。銃撃を浴びながら、走りに走る。途中休息した森の中で、生きものたちの世界の静けさに幸福感を抱く描写が、とにかく美しい。
 脱出成功後、ピレツキはソ連の影響下で反共産主義運動に身を投じるが、結局、彼の愛した祖国によって裁判にかけられ処刑される。
 収容所の中で、彼の目撃した暴力も凄まじい。母の前で子を壁に叩(たた)きつけて殺す、ユダヤ人の睾丸(こうがん)を木槌(きづち)で潰す、収容者に放射線を当てて生殖器を破壊する。
 目を覆う残虐を直視するピレツキの息遣いに耳を傾けよ。人間の極まった野蛮と暴威の只中(ただなか)に、微弱だがたしかな息吹を感じる。
    ◇
Witold Pilecki 1901~48。ポーランド軍将校。本書の元となる報告書は、2012年に英訳で世に出た。