フランスの絵本に一目ぼれ
——ぼくのママは かいぞくなんだ。何カ月もの間、ママは宝の島を目指して、かいぞく仲間と「カニなんてへっちゃら」号で旅をしている——。海賊のエピソードを読むうち、やがてママが闘っていたのは「乳がん」とわかる絵本『ママはかいぞく』(光文社)は、2018年にフランスで出版された直後からヨーロッパ内外で大きな話題となり、現在は9カ国で翻訳されている。日本では2020年に翻訳が出版され、リブロ絵本大賞に入賞した。同書を担当した光文社新書編集部の三宅貴久編集長と、翻訳を手がけた山本知子さんに同書の魅力を聞いた。
三宅:僕は光文社の新書編集部というところにいて、基本的に中高年男性向けの本を作っているんです。絵本は将来的にやりたいと思っていましたが、ある日、海外の絵本なども扱っている翻訳エージェントの方から「こういう本があります」とPDF付きで送られてきた本があって、それがフランスで出版されたばかりの『ママはかいぞく』でした。その中身を見て、一目ぼれしてしまいまして。
乳がんを患って、病と闘うママの話なのですが、ストーリーを読んでも「がん」であることは一度も明示されていないんです。表向きは海賊の話ですが、読むうちにがんと闘っていることがわかってくる、そのストーリーに惹かれ、ぜひ翻訳権を取りたいと思いました。約1カ月後にフランクフルトの書籍見本市で現物を見て、改めて入札をし、出版権を得ることができました。先に申し上げた通り、僕は絵本の編集が初めてなので、以前からお仕事をお願いしていたリベルさんに翻訳のご相談をしました。フランス語の訳者で絵本の翻訳をできるかたをご紹介いただこうと思ったわけです。
山本:私自身は個人としてはフランス語の書籍翻訳をやっているのですが、リベルという多言語の書籍翻訳会社の代表でもあります。最初はフランス語の翻訳者で誰かにお願いすることを想定していたのですが、この絵本を読んで大変な感銘を受けました。というのも、私の母も乳がんを患っていたことがあったからです。娘が小学校時代、中学校時代に家族ぐるみで親しかったお友達のお母様も、3人ほど乳がんで闘病されていて、中には亡くなった方もいらっしゃいます。乳がんがテーマになっているこの本を読んで、亡くなった友人も含めて色々な人の顔が浮かびました。そこで「私に翻訳させていただけませんか?」と三宅さんにお願いしたんです。
冒険の裏にある話をどう伝えるか
——表向きは「かいぞく」になったママの冒険譚。しかし、その実は乳がんとの闘いの記録でもある。明示せずに気づかせる鮮やかな筆致は「素晴らしい」と三宅さん、山本さんは声を揃える。翻訳上の問題は、フランス語では「カニcrabe」は、その形状が似ていることから「がんの腫瘍」を意味する、つまり、言葉での暗示ができるのだが、日本語は「カニ=がん」というイメージ対応がしていないという点だった。
山本:文体はすごく素直で、訳しやすい文体ではありました。難しかったのは、海賊の話の裏側に乳がんの話があるので、実はお母さんが乳がんで闘っていることを読者にどう感じさせるか、という点です。露骨な説明をするとこの絵本の良さがなくなってしまうので、ストーリーで展開される二重の意味をどういう言葉で表すのかという点は、普通の絵本より難しかったし、またやりがいでもありました。
三宅:僕自身「しかけ」のある物語が好きなこともあり、この二重のストーリー展開には心惹かれるものがありました。
山本:この絵本の良いところは「暗くない」ということですね。(がん治療を終えて)お母さんが青ざめて帰ってきて、元気がないというシーンもありますが、全体としてはどちらかというと明るいんです。そうした点も、実際に経験した方が共感してくれるところかもしれませんね。フランス語の原文も決して暗くはないので、全体的にその雰囲気を保ちながらも現実はそのまま伝えるということを、言葉選びで意識しました。
三宅:船の名前については、最後まで悩みましたね。
山本:ええ。船の名前を「カニなんてへっちゃら号」と翻訳しているのですが、フランス語では「le crabe sans pitié」直訳すると「情け容赦のないカニ」という意味になるんです。Crabeはカニであり、がんという意味もあります。西洋ではがんの腫瘍の形がカニに似ていることから、英語でもcancerにはカニとがん、両方の意味があります。でも実際には、この船はがんそのものではなくがんと闘うべき船なので、そのままの訳だとあべこべの意味に捉えてしまう可能性があります。訳者としては、できるだけ原文に忠実に訳したいので、本当にいいのだろうかとかなり悩むところではありましたが、三宅さんと相談して思い切った意訳をしました。
絵本は圧倒的に文字が少ないですし、まだ言葉をたくさん知らない子どもも読めなくてはならない。原文もシンプルなことばで書かれているので、それを子どもに分かるようなシンプルな日本語に翻訳する必要があります。非常に短い言葉の中に、非常に深い内容を伝え、説明しすぎてもいけない。そうした言葉選びに関しては推敲に時間をかけ、読んだときのリズムを大事にしました。大人が読み聞かせをするとき、子どもはリズムがよくないとおそらく聞いていてくれないと思ったからです。「言葉選び」と「リズム感」という2点は、(大人向け)一般書よりも力を注いでいます。
幼少期から社会的な問題を
三宅:フランス語の原書は、表紙に「がんの話だ」ということが書いてあるんです。ただ日本語版は、表紙にそうした単語を入れませんでした。表向きは海賊の話だけど、本当はがん治療、闘病の話なんだよということは、読み進めるうちにわかるようにしたかったからです。
山本:フランスの原書版が「がんについての話」と明示するのは、お国柄だなと感じるところでもありますね。イタリアのボローニャで開かれる、児童書の国際ブックフェアに行ったときに感じたのは、ヨーロッパには日本よりもはるかに社会的なテーマを扱っている絵本が多いということです。病気や離婚、環境問題、そうした問題を絵本で小さい子にも分かってもらおうという姿勢がある。
三宅:そういう点もあるかもしれません。
山本:そうした意味でも日本でこの絵本が翻訳できてよかったと思います。特にこの本は、先ほども申し上げた通り、海賊のストーリーを通して、暗くならずに、見事に闘病を描いています。それはフランス本国でも大変好評のようですね。
三宅:あと、個人的には、この話に出てくるお父さんがすごくいいな……と思っています。妻に寄り添って支え、闘病に出ている際には当たり前のように家族のため料理を作ったりしている。ひそかにそうしたシーンがいいなと思っています。
山本:確かに! お父さんの活躍も見どころです。
三宅:まだ読者の方から、お父さんについてのコメントは届かないんですけどね(笑)。今回の絵本翻訳を経て、海外の絵本は「宝の山」だなと感じました。今後も少しずつ出版をできたらと考えています。
山本:実は昨年まで、私が代表の翻訳会社では(児童書の見本市が開かれる伊・ボローニャと姉妹都市の提携をしている)板橋区が所有している世界の絵本の整理のお手伝いをしていました。およそ50言語、2000冊のあらすじを作ったのですが、絵柄やお話に、実にお国柄が表れているということに気付かされます。まだまだ世界には面白い絵本があるので、これからも良書の紹介に関わっていきたいですね。