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「ぼくは挑戦人」ちゃんへん.さんインタビュー 世界のプロパフォーマーがつづったいじめ体験と夢・好奇心

文:朴順梨 写真:ちゃんへん.さん提供

「いじめなんておもしろいもの、なくなるわけがない」

――著書は冒頭から壮絶ないじめの経験を書いておられます。

 生まれは在日コリアン集住地区で知られるウトロです。3歳の時に父が亡くなり、それをきっかけに他の地区に移り住みました。その後は母親が働いて家族を支えていました。

 公立の小学校に「岡本」という日本名で通っていたんですが、3年生の時に給食で出たピビンパについて知識を披露したことで、クラスの友人からだんだん距離を置かれ始めたんです。無視から始まり、上履きを隠されたり、教科書に「ちょうせんじん死ね」と書かれたりと、どんどんエスカレートしていきました。

――「なぜ自分がこんな目に遭わなくてはならないの?」と、悲しくなりませんでしたか?

 「最初のうちは「なんで自分が?」って思いましたけれど、だんだん「いじめられていることが正しいんだ」って思ってしまう瞬間が、僕にはありました。自分はいじめられる理由がある人間だから、もう仕方がないんだと。そう思うだけで、少し楽になれる気がしたんです。本当は嫌なのにいじめられることを肯定してしまって、そこから逃げたりNOと言うことができない。そんな状況でしたから。

 でもこんな惨めな学校生活を送っているなんて、オモニ(母親)、ハラボジ(祖父)、ハンメ(祖母)には絶対ばれたくない。家族を悲しませたくなかった。4年生になると、6年生に彫刻刀で刺されて病院に運ばれたんですが、いじめられていることはずっと隠していました。

 母親が働くということを理解できている年齢ではなかったけれど、自分のために働いてくれているってことは子どもなりに分かるので、親を裏切りたくなかったんです。そして、いじめられている自分をどう思うんだろうという、不安というか恐怖もありました。「弱いあんたなんかいらない」って言われたらどうしよう、捨てられるんじゃないか、とか思ってしまっていました。

――それでもお母さんは、いじめられていることを知って学校に乗り込んだのですね。

 オモニは先生に向かって「子どもにとってあんなおもろいもん、なくなるわけないやろ! いじめよりおもろいもん教えたれ!」と言ったんです。いじめが楽しいって環境を作った大人に責任があると思ったので、母の考え方に救われた部分は大いにあります。そしていじめている6年生にも「お前らのやってることはただの弱いものいじめや。強さを自慢したかったらルールのある世界で勝負せえ!」と一喝しました。

 その後6年生は卒業し、いじめも徐々におさまっていくんですが、 そしてこれは本には書かなかったのですが、荒れている子たちも抱えている問題があり、彼らも誰かから差別されることがありました。今になって考えれば、生活の背景や環境がそうさせてしまった部分があるとわかります。でも小学生同士はそんなこと関係ないから、在日コリアンというわかりやすいターゲットにされてしまった。僕がいなければ、違う形で同じようなが起きていたと思います。

夢を叶えるのは簡単なこと

――そんな小学校時代に、どうやって夢を見つけて、今につなげたんですか?

 楽しみは『月刊コロコロコミック』を読むことでした。僕がいじめられていた時に声をかけてくれた、近所のおじさんがいたんです。彼は当時40代でコロコロを愛読していて、ミニ四駆が好きで。子どもにとってはいいおじさんだけど、保護者から見ると危なそうな人でした。彼が教えてくれたミニ四駆は、工夫ひとつで速くもなれば遅くもなり、そこがすごく面白かったのです。

 のちに読者プレゼントでハイパーヨーヨーが当選して、自分の力で技を競うところにさらなる魅力を感じて。大会で誰かと戦って勝つことも嬉しかったので、とにかく夢中になりました。母親に上位機種のハイパーヨーヨーを買ってもらった直後に、子どもの間で空前のハイパーヨーヨーブームが来たんです。技を身に着けようと負けたくない気持ちで練習に励み続けて、気付けば学校のヒーローになっていました。

――まさに『コロコロコミック』的な、弱い少年が打ち込めるものに出合い、成長していくストーリーそのものです。

 小学生なんて所詮狭い世界ですので、ライバルも少なかった。だから自分が一番うまかったんですよ(笑)。そして中学生になって今度はジャグリングと出合い、プロの技を目にしたことで「あの人たちみたいになりたい」って直感で思ったんです。

――中学3年生の時にアメリカ・サンフランシスコでのパフォーマンスコンテストに優勝されました。すごい勢いで前へ進んでいきますね。

 渡米のためにはパスポートが必要で、朝鮮籍という無国籍状態だった僕は韓国国籍を取得しようとして騒動が起きたり、一筋縄ではいかなかったんですが、おかげさまで世界各地からオファーを頂くようになって。ディアボロ(ジャグリングのアイテム)一つで、韓国やヨルダン、ケニアや南アフリカ、そして(北)朝鮮やロシア極東のサハリンでも演技しました。

――「そこは危ないのでは?」と言われている地域や国も多いですが、臆せず行けた理由は、何だったんですか?

 僕の性格もありますが、とにかく好奇心が強いんです。「自分は何者なのだろうか」と、すごくあがいていた部分がありますし、この場所って本当に教科書に書いてあるとおり危ないのかとかを、自分の目で確かめたかったんです。だからブラジルのスラム街の「ファベーラ」なんて、行きたいと思ったらすぐ行きました。

 いざ行ってみると確かに環境自体はひどいものでしたが、住んでいる人たちはひどいどころか、むしろ生き生きしていて。だから日本にいると「あの地域の人は貧しくてかわいそう」「あの国は住みにくい」と思ってしまうかもしれませんが、その人たちにとっては余計なお世話で、その町の本質とかその人自身を見ていないことだと気付きました。

――今は日本国内を中心に講演や演技の披露を続けておられますが、パフォーマンスだけでなく、本でメッセージを伝えようとしたのはなぜですか?

 この本は「自伝」と紹介してくださる方が多いのですが、僕は反省文とか感謝状に近いと思っていて。でも成功者の本ではなく、反省を繰り返しながらやっと自分の好きなことを見つけられた、色んな人との出会いで気づかされたということを伝えていきたいんです。

 僕もチャンピオンになると確かに嬉しいのですが、ヨーヨーの競技会だと「自由演技」と言いつつ、難易度の高い技の点数が高かったりと、本当の意味では自由ではなくて。でも僕はヨーヨーそのものが好きなので、自分のやりたい技をやりたい。だからある時、順位を気にせずに好きなことだけをしたら、ノーミスでしたが準優勝に終わりました。「2位で残念ね」と言われたけれど僕は嬉しかった。周りがどうではなく、自分が幸せを感じるかが、とても大事だと思うんです。

「ちょうせんじん」に込めた、ポジティブな意味

――ところでなぜタイトルにわざわざ、いじめられている時に浴びせられた「ちょうせんじん」という言葉を使ったのですか?

 「挑戦人」って題した講演会を10年ぐらい前からしているので、それに「ぼくは」っていうのを付けただけなんです。この言葉には僕が大好きな、手塚治虫的なエッセンスが入っていて。手塚治虫の作品には、たとえば『ブラック・ジャック』だったら

 「このシリーズには、黒人をはじめ、多くの外国人が登場します。それらの一部が、未開発時代の姿であったり、過去の時代を誇張した書き方になっていたりして、現在の状況とは大きく違うところがあります。(中略)
 もちろん私たちは、あらゆる差別に反対し、差別がなくなるように努めてまいります。しかしながら、作者がすでに故人で、第三者が作品に手を加え改定することは、書作者の人格権上の問題ともなりかねないと同時に、この問題を考えていく上での適切な処置ではないと思います」

 と、当時と今の表現についての但し書きが必ずあります。でも過去に許された表現が現在の状況と違うということは、時代がよくなっているということですよね? 「ちょうせんじん」も音だけで聞いたら、ネガティブに感じるかもしれない。でも「ちょうせんじん」って言葉がポジティブに使われるようになれば、状況が良くなっているのではないかという願いも込めて、このタイトルにしました。

――そう聞いて納得しましたが、最初は「勇気あるなあ」と、ちょっとギョッとしました。

 この本では色々な問題提起をしていますが、タイトル自体がすでに問題提起なんです。読み終わってこのタイトルの深さを「なるほどね」と分かってもらえたら……。だからこれ、ダジャレじゃないんですよ(笑)

――同じ在日コリアンの後輩たちにも、響くタイトルだと思います。

 朝鮮学校に講演会で呼ばれることもあるんですけれど、無償化から外されていることで、「高校は別のところに通った方がいいのではないか」と悩む中学生たちがいます。だから僕はある時、朝鮮学校の中3生に向かって「進路を迷ってる理由が無償化の対象外で、親に迷惑をかけてしまうというものであれば、迷わずハッキョ(朝鮮学校のこと)に行って欲しい。でも日本の学校に進む目的があるなら、そっちに行って欲しい。ハッキョがどうなるかではなく、まずは自分の進路を考えて欲しい。あなたたちは誰も間違っていないから、胸を張って生きて欲しい」と言いました。

――色々傷つくことも多い中で、何よりも励ましになったのではないかと思います。講演で出会った子どもたちに「夢を叶えてすごいですね」と聞かれた時には、なんと答えていますか?

 人って最初に「いいな」と思ったことは、自分のやりたいことなんです。だからケーキ屋さんとかパイロットとか、子どもの頃に抱いた夢は、大人になっても近いことをしたいのだと思います。

 僕が最初に憧れを抱いた職業は落語家で、それは桂枝雀さんの本を読んで「笑いってすごく考えられて作られているんだ」と気付き、「こういうことができる人になりたい」って思ったんです。落語家とジャグラーはジャンルは違いますが、人前で技を披露することは共通していますよね。

――でも、誰もがチャンピオンになれるわけではないし、「夢を叶えなければ、存在を認めてもらえない」と逆に失望感を与えてしまったりしませんか?

 僕は夢を叶えるのは簡単だと思っていて、大統領になるとかウサイン・ボルトより速く走るとかは論外ですが、大抵のことは努力をしていれば叶うと思います。万一なりたいものになれなくても、そこまで頑張ってきたプロセスを活かせば、違う道が拓けるはずですし。夢も目標も途中で変わっていいと思うし、「自分はこれは向いていない」と気づくことも才能だと思いますから。

 今はSNSなどで同じ目標を持つ人と情報共有できる時代なので、好きなことや気になることは面倒くさがらずに、少しずつチャレンジしていくといいと思います。