1. HOME
  2. コラム
  3. 作家の口福
  4. タコスの恍惚 星野智幸

タコスの恍惚 星野智幸

 世界中どこの都市へ行っても食べられる料理といえば、かつては中華だったが、今はピザ、タコス、スシ・ロールかもしれない。
 タコスなしでは生きていけない体になってしまった私は、つい各地でタコス屋に入るのだが、失望はかえって深まる。ロンドンでもソウルでも、売っているのはブリトーであり、ブリトーを小さくしたようなタコスだった。

 ブリトーは、メキシコ系アメリカ人の料理、つまり「テックス・メックス」であって、メキシコ料理とはまた違う。
 最大の相違点は、具を包むトルティージャに、テックス・メックスでは小麦粉を使うこと。だが、メキシコではトウモロコシを使う。それがトウモロコシ原産地、メキシコ先住民の食文化だから。

 トウモロコシの粒を石灰の粉と一緒によく煮て、寝かせて水を捨て、つぶしてペースト状にして、手のひら大に薄く延ばし、プレートで焼く。このときの、焼けたトウモロコシの香ばしい匂いこそが、タコスをタコスたらしめている。

 トルティージャに載せる具は無限で、何であれトルティージャに挟んで食べればそれはタコスになる。中でも私の人生の料理ベスト3に入るのが、タコス・アル・パストールだ。

 日本でもあちこちで見られる、ドネルケバブというトルコ料理がある。重ねた肉の花束のような塊を縦に串刺しし、回転させて横から炙(あぶ)り、表面を大きな包丁で削(そ)ぎ落とし、パンに挟んで食べる。あの肉を、メキシコの唐辛子とビネガーや柑橘(かんきつ)果汁に漬け込んで焼き、削ぎ落とした肉をトルティージャに載せたのが、パストールだ。

 前回言及したように、パクチー、刻みタマネギ、ライム、サルサをかけてかぶりついたときの、辛酸っぱさと立ちのぼる香りは、理性を吹き飛ばして恍惚(こうこつ)とさせてくれる。メキシコ料理の神髄は、あれこれ載せて齧(かじ)りついたときの、想像を超えるハーモニーにある。

 トルコのオリジナル料理を、肉の漬け汁だけで、まったく異なるメキシコ料理の顔に仕立ててしまった。漬け汁の秘訣(ひけつ)は、これもメキシコ原産の、何十種類とある唐辛子だ。しかも、一つの唐辛子を乾燥させたり燻(いぶ)したりして、異なる風味の香辛料をいくつも作り出すから、奥が深い。

 このパストール、日本でも数年前から食べられるお店が増えた。同時に、トルティージャ用のトウモロコシ粉や唐辛子など、食材を売る店も現れる。私の友人のカメラマンなど、メキシコ料理に身を捧ぐべく、農家に転身して各種の唐辛子や香辛料を作り始めた。
 コロナ禍でメキシコに行けない現在、自宅で作る自己流パストールが、私の心を生きながらえさせている。=朝日新聞2020年11月21日掲載