学問と政治の不幸な出合いは歴史上、幾つもある。エンリコ・フェルミら原子物理学者は、ウラン235の核分裂について中性子の連鎖により巨大な破壊力を持つ爆弾ができることを、1939年に確認した。ヒトラーが政権を担った時代である。
これが政権に利用されたら、と案じたアルバート・アインシュタインが、ルーズベルト米大統領にウラン爆弾の製造を訴えたのは、まさに学問の側からの政治への要請であった。
介入し排除する
私たちは、「学問の自由」や「思想の自由」を当然のことと考えているが、学問や思想の内容について国家権力はそれほど甘く見ていない。政治は、気に入らない「学問・思想」の内容を二つの手法でチェックし、介入し、そして排除する。一つは反権力的な内容を学問の側に監視させること、もう一つはその監視をシステム化することだ。
今回、日本学術会議の会員候補6人の任命拒否は、その手法がファシズム体制下でなくても機能していることを教えた。
この構図を正確に示しているのが、憲法学者・宮沢俊義の『天皇機関説事件』(上・下)である。宮沢は、「天皇機関説」が攻撃された美濃部達吉の門弟だが、戦後になってこの事件(35年)の詳細を調べ、書にまとめた。事件当時から集めていた新聞・雑誌の切り抜きなどを時系列で並べ、解説を加えていく。ファシズム体制が進むプロセスが明確になる。機関説排撃の裏側はもちろん、メディアの報道内容や識者の談話まで詳細に検証しているからだ。これは、京都帝大教授だった滝川幸辰(たきかわゆきとき)の学説が不穏当として、学内から追放した滝川事件とも重なる。
「扇動者」(国粋主義者の大学教授・蓑田胸喜〈むねき〉ら)が騒ぎ、議会で質問をする議員の「威圧者」がいて、それを受けて批判や弾劾(だんがい)に走り、暗殺さえ考える「攻撃者」がいる。やがてそれを収めるという形で「権力者」(政治的指導者)が出てきて、法的処分を下すのだ。今回はそのプロセスが隠されていて、いきなり権力者の首相が出てきたが、見えない部分に扇動者や威圧者、攻撃者がいる。学問は、政治の狡猾(こうかつ)な管理、抑圧の生贄(いけにえ)になっていると言えようか。
かつて軍事主導の時代、陸軍から「ニ号研究」(原子爆弾開発計画)を託されながら、科学兵器の怖さを説いた原子物理学者の仁科芳雄は、戦後すぐに「日本再建と科学」という稿を書いている。科学は使い方により「平和国家の建設」の鍵になるという(『科学技術をめぐる抗争』所収)。科学者は政治の道具となってはいけないと、49年に発足する日本学術会議の先頭に立った。また、分子生物学者の柴谷(しばたに)篤弘は、自ら「反科学」を主張している(「わたしにとって科学とは何か」同書所収)。そこにあるのは、肥大する科学研究が政治に利用されまいとする覚悟ではないだろうか。
暗い時代に目を
政治が私たちの意識や存在を支配しようとする時、学問にはいかなる抵抗がありうるだろうか。もとより答えは一つではない。しかし、自らの学問が権力に弾圧されるだけでなく、存在が否定される時代があった。
政治哲学者ハンナ・アレントが『暗い時代の人々』で書く、思想家ヴァルター・ベンヤミンの自殺は、ゲシュタポに追われての死だ。アレントは、時代が印を刻むのはその時代に最も強く苦しんだ人たちだとして、ベンヤミンの名を挙げる。そして破局のさなかも毅然(きぜん)とした態度をとり続けた哲学者カール・ヤスパースの活動の基底には、哲学も政治も「万人にかかわる」という確信と責任があると見る。
今、「暗い時代」に生きた知識人を想起しなければという時代とは思いたくない。しかし私たちは、こうした書の教訓に目を閉じていていいわけではない。=朝日新聞2020年11月28日掲載