小説家の中に、「私は詩がわからなくて」と臆面もなく発言する人がいる。現代の人に限らず、武者小路実篤まで書いている。その発言の裏には、「小説がわからない人なんていないのに」という傲慢(ごうまん)さと、詩への蔑視を感じてしまう。小説家や小説ファンは「物語」というものの価値を無邪気なまでに疑っていなくて、そのノリがどうも苦手だ。
私は小説がわからない。「詩がわからない」という人と同じ感覚でわからない。小説の良し悪(あ)しや面白みがわからない。一方で、詩や短歌の良し悪しはわかる。声に出して読んでみて気持ちのいいものが、良い作品である。とてもシンプルじゃないか。
どうも私は散文を読むセンスが欠落していて、韻文ベースでしか言葉に向き合えないタチらしい。文章において一番重要だと感じるのがリズムや音韻、その次がイメージ。ぎりぎり理解できるのはキャラクターで、一番興味がないのはストーリー。1ページ目から順に読んでいかないと意味がとれない本はどうも肌に合わず、好きなところから読みたい性分だ。ちなみに漫画も長編ものはあまり読まなくて、4コマ漫画が一番好き。
音楽的心地よさ
しかも小説は、散文でストーリーを書こうとする。音楽的な心地よさとストーリーの整合性はたいてい食い合わせが悪い。もしかすると明治時代の言文一致運動のもとでは、小説は日本語の発達のプロセスとして必要なピースだったかもしれない。でも現代ではもうその役割は終わっているんじゃないか。小説よりもそれを原作にした映像作品を好む人の方が多いのは、そういうことじゃないか。純粋なストーリーテリングの技術という点だったら、小説家よりも脚本家の方が上ということでは。
しかし、小説嫌いを自認する私にも好きな小説がないわけではない。たとえば、アメリカの作家ニコルソン・ベイカーの『中二階』。エスカレーターに乗っている間の考え事を膨大な注釈付きで長々と書いた実験小説で、ストーリーは一切ない。考え事の内容は、舌磨きの口臭防止効果やペーパータオルの利便性など、日常の中のどうでもいいことばかり。しかし、細部だけで構成されていて本筋が皆無というエッセイ的な構造が、物語不感症の自分にはとっつきやすかった。過剰なまでにロジカルな思考が延々とダダ漏れしている文体がいい。
数少ない好きな小説家としては高橋源一郎と長嶋有がいるのだけれど、それぞれ小説の背景にあるのが詩と俳句で、韻文の感覚をベースに散文を書く作家だ。私の気に入る小説家はことごとく、詩歌にも通じている人ばかりである。高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』は、小説の途中でいきなり漫画が挿入されたところで腹を抱えて笑った。この作者は、物語というものを心から馬鹿にしているんだなと感じて嬉(うれ)しかった。小説の形式を取りつつ小説自体を小馬鹿にしているのが痛快だった。形式そのものを常に疑いながら書くのは、現代詩ではごく普通の姿勢なのだけれど。
枝葉にこだわる
長嶋有は『泣かない女はいない』という短編が特に好きだ。埼玉郊外の風景と下請け企業の空気感が写実的に描写されているところがいい。前二作と比べると筋もあってだいぶ小説らしい小説だが、会話に出てくる固有名詞(キン肉マンのキャラとか)など、あらすじを書くときに速攻で落とされる枝葉へのこだわりがすごい。一番好きなシーンは、会社のパソコンがウイルスに感染したのは自分がインストールした囲碁ソフトのせいではないかと社長が怯(おび)えるくだり。私はこの社長が大好きだ。物語から少し隔たったところでいきいきした姿を見せる脇役の描写が、長嶋有は抜群にうまい。=朝日新聞2021年1月23日掲載