福島県南相馬市は南北に長く、南は東京電力福島第一原子力発電所が立地し「警戒区域」となった双葉郡と接しています。そのため、東日本大震災では津波だけでなく、原発事故による放射能汚染の被害も受けました。震災から10年が経とうとしている今も、市内には放射線量が高い「帰還困難区域」がごく一部ではあるものの、残っています。また「フルハウス」がある小高(おだか)区全域は、2016年7月まで避難指示区域に指定されていました。
柳さんは震災直後の11年4月にこの地を訪れ、12年2月からは臨時災害放送局でラジオ番組「ふたりとひとり」を開始。15年4月に、神奈川県鎌倉市から南相馬市に移住しました。柳さんはなぜ、ここに本屋を開いたのでしょうか。
心のささくれが、傷になって痛む
――震災から10年。現在の南相馬市をどのように見ていますか。
東京電力福島第一原子力発電所の周辺地域は、原発事故によって細かく線引きされました。小高区は、旧「警戒区域」です。原発から半径20キロ圏内にすっぽりと入っています。私が南相馬市にきて最初に暮らした原町区は一部が20キロ圏内ですが、大部分は20キロ圏外であり、30キロ圏内です。
震災前に30キロ圏内で暮らしていた人には、医療費や高速道路料金が無料になるといった免除措置がとられているんですが、20キロ圏内の人のような精神的損害に対する慰謝料や、家屋などの財物の賠償がないんです。
そうしたいろんな「線引き」によって、地域の摩擦や対立があちこちで起きています。たとえば飲食店に入ると「小高のヤツは金があるから」というような声が聞こえてくる。私の友人は、津波で小高にあった家が流されたので、鹿島区の仮設住宅に入っていたんですが、集会所で雑談をしていたら別の区の人がやってきて「小高は金があるから笑ってられるんだ」と言われた。そんな風に言われるから、車を買うとき、本当は新車が欲しいんだけれども、わざわざ中古車を買ったという話を聞いたこともあります。
「心がささくれだつ」、そうおっしゃった小高の方もいらっしゃいましたね。そのささくれが、気づけばかなり深い傷になって、痛む。血がにじんでいるといったことが日々の暮らしのなかであるんですね。
――10年経ってなお、そのような状況にあるんですね。
それは賠償金が出ているからというのもあります。もともとはなかったラインが引かれたことによって、本来は国や事故を起こした電力会社に向けられるべき矛先が、住民同士に向いてしまっている。住人の心の問題が深刻です。
今いわれている「密」という言葉でいえば、震災前は親密な人間関係が成り立っていたわけです。ラジオ「ふたりとひとり」では、600人の方にお話をうかがいました。番組はスタジオで収録することはほとんどなくて、みなさんのご自宅や店舗や学校や畑やビニールハウスなどさまざまな場所を訪ねるので、暮らしぶりが見えるわけです。みなさん、自宅があり、敷地内に蔵があって「はなれ」があり、田畑がある。2世帯、3世帯が一緒に暮らしている。家族があって、隣組があって、地区があったんだけれど、それが寸断されてしまった。避難先からひとりで戻ってこられたお年寄りの孤独死や、自死といった問題が起こっています。
『JR上野駅公園口』にも出てくる勝縁寺というお寺があるんですけれども、ご住職とお話をしていると、「お寺に集まったりお酒を飲んだり、あんなに仲が良かった門徒(檀家)さん同士が、口も利かなくなってしまった」という風におっしゃる。それはやっぱり不幸なことですよね。
――そんな親密な人間関係があったところに移住するのは、勇気がいりそうです。
私自身、というより父母や祖父母の代からなんですけれども、国を離れているじゃないですか。朝鮮戦争の動乱から逃れてきた。その時は父や母、家族は何も持たずに小さな漁船に乗って、すべての地縁・血縁があった場所から別の国に降り立ったわけです。私も小さい頃にわりと転々としたので、感覚としては「どうせ流れ者なんだ」っていうのがあるんですよね。
ずっと首都圏で暮らしてきたんですが、戯曲や小説を書くときは必ず旅をしていたんです。昔はワープロとボストンバッグを持って、自炊部(宿泊者が自分で食事を作る場所)がある安い旅館、1泊3000円を切るようなところに滞在して書いたんですね。在日韓国人だということもあると思うんですけど、父母や祖父母が「漂泊」していたので、旅をするときは必ず「ここに住めるだろうか?」という目でそこを見るんです。外国に行ったときなんかでも同じです。「私、住めるかな」って。それで南相馬は「住めるな」と思ったんです。
――地元の人たちは、柳さんの移住にどんな反応でしたか。
最初にラジオ番組という役割があり、12年2月から「ふたりとひとり」の収録が始まりました。生放送ではないので南相馬市に毎週来る必要はないけれど、1カ月に1度、忙しい時でも2カ月に1度は来て、2週間ぐらいかけて収録をする。それが最初にあったから、(移住した)15年の段階では知り合いがかなりできていました。
臨時災害放送局というのは大きな災害が起きた時に、その災害を軽減することを目的として立ち上げる臨時のラジオ放送局です。交通費も宿泊費も出ない手弁当だったので、出演してくださった方のご自宅に泊まらせてもらったり、「泊まりなよ」って声をかけてくれる友人ができたりして。農家の方のご自宅とか、仮設住宅とか、クリーニング屋さんの2階とか、いろんなところを泊まり歩いたんです。ですから、いきなり移住したわけではなく、南相馬の暮らしにだんだん着水していったという感じですかね。
地域の人たちは「絶望が濃くなっている」
――移り住んだ時点で、ゆくゆくは本屋をやりたいという思いがあったのでしょうか。
まったくないですね。2011年4月21日に、警戒区域が設定されるという発表を当時暮らしていた鎌倉の自宅で見ました。22日0時をもって立入禁止になるというので、とにかくこの目で見ておかねば、歩いておかなければと思いました。その時点では、こんな風に避難指示解除準備区域、居住制限区域、帰還困難区域といった名前がついて、段階的に再編されて解除されていくとは思いも寄りませんでしたね。
南相馬市に通っているうちに臨時災害放送局のディレクターの今野聡さんから、「通ってきているなら協力してもらえないか」と声がかかって、ラジオ番組をやるようになりました。臨時災害放送局って本来は開設期間が短いんですよ。生活に役立つ情報、たとえば炊き出しとか給水車の情報など地域で役立つことをこまめに報じることが役割なので、数カ月で閉局するんです。12年の元日に今野さんと会った時にどれくらい続くのか聞いたら「長くて1年です」と。「わかりました。閉局までやります」って言ったら、それから毎年、年末になると「来年も続きます」とメールが届く。閉局までやると言った約束は生きているので、約束を守るためには転居するしかないなと。もし臨時災害放送局が1年で閉局していたら、どうなっていたかわからないですね。転居してくる理由のひとつはなくなるわけですから。
ラジオ番組の100回目には、小高工業高校の先生に出ていただきました。収録が終わった後で先生が、生徒たちは文章を書くのが苦手なんだけれども、就職試験では必ず小論文がある。彼らの苦手意識を払拭するような講義をやってもらえないか、と。荷が重いなと思ったんですけど、引き受けました。講義が終わった後に「継続してほしい」ということで、その後も続けて講義を行いました。
小高工業高校は震災後、原町区の仮設校舎で授業をしていたんです。休み時間に、「16年に小高区の避難指示が解除されたら、小高工業高校と小高商業高校が統合して小高産業技術高校となって、小高に戻るんだ」っていう話を先生から聞きました。生徒数は500人で、小高区内から通うのは10人以下。あとはJR常磐線で近隣の町から通うわけです。復旧した電車のダイヤを調べてみると、本数がかなり少ない。1本乗り遅れたら1時間ないしは1時間半待たなきゃならない。「生徒たちはどこで待つんだろう?」と思ったんです。
今は小高区にも復興拠点があったりスーパーがあったり、24時間のコンビニもできていますが、当時は店がほとんどなかったんです。生徒たちの下校時間に開いている店が必要だろう、自分で何かお店をやれないかなと思ったんです。生徒たちのお小遣いの額もわかっていたので、何も買わなくてもいられる場所がいいだろうと考えたら、本屋しかないんじゃないかと。それから物件を探しました。「ふたりとひとり」でいろんな方と知り合っていたので、「小高駅からひとつ目の信号までで、生徒たちにとって第二の駅舎となるような土地ありませんか?」って聞いてみたんですけど、みんながみんな「無理だよ」って。
難しいかなと思っていたらTwitterで、息子が通っていた高校の2つ先輩にあたる中島君という子から連絡がきて、「小高にある母親の実家が売られそうです」と。「柳さん本屋をやりたいって言ってましたよね。買ってくれませんか」という話が舞い込みました。
――そうしてできた本屋が、ブックカフェとなったのはなぜですか?
本屋は18年4月にオープンしました。本屋としても座れるスペースはあったんですが、お茶を飲んでもっとゆっくりしたいという声が多かったんです。遠方から電車で来てくださる方は、本数も少ないし、待つあいだに食事をしたりする店や場所もあまりない。そういう声があったのと、小高からいわき市まで広大な無書店地帯なんです。原発事故が起きる前は7書店あったんですが、避難区域になったことでなくなってしまった。ですからフルハウスにわざわざ双葉郡の浪江町や富岡町から頻繁にいらっしゃる方がいるんです。
そういう方のなかには、一時帰宅をして荒れ果てた町や家を見て、また避難先に帰る。その途中にあるこの店で気持ちを落ち着けたいとおっしゃる方が大勢いらっしゃった。そんな時に温かい飲み物や食べ物があったほうがいいじゃないですか。食べ物って「手当て」につながると思うんですね。最初にお話しした「心がささくれだつ、傷つく」というとき、言葉が見当たらなくても、美味しいものを食べると「美味しい」という言葉が出てくる。それが「手当て」に繋がると思うんです。そういうものを提供したいなという思いがあったんです。
――電車を待つ高校生のためにと作った本屋が、いろんな人に利用されたということですね。
いろんな方がいらっしゃいましたね。本屋を開いてみて思ったのは、「本も被災したんだな」ということです。開店したときにいらっしゃった方で、両胸に手をあてて「綺麗ね。紙の匂いがする」って。お話をうかがうと、自宅が警戒区域になってしまって、倒れた本棚をそのままにして避難した。そこにネズミやハクビシン、アライグマが入り込んで、糞尿で汚れた本を廃棄せざるを得なくなってしまったというんですね。
本って、物であって物じゃない。その時にその本を読んだ自分が、どの場面で登場人物と自分を重ね合わせたかとか、自分史と重ねるものが本だと思うんです。店には除染作業員の方もいらっしゃいます。宿舎にテレビがなくて作業が終わってから時間を持て余しているということで司馬遼太郎の『胡蝶の夢』全4巻を1冊ずつ、読み終わったら次を買いに来てくださって。「胡蝶の夢」ってもとは荘子じゃないですか。夢のなかの自分が現実なのか、現実のほうが夢なのかっていう。もしかしたら、そんな心持ちで除染作業に従事されているのかなと思うこともあって。いろんなことがありますね。
――本屋は、その地域やそこで暮らす人たちを反映すると思っています。「フルハウス」はどんな本屋になっていますか。
絶望の淵に立っている人が多いですね。この町の状況がかなり厳しいというのもあって。小高区の居住者数は、20年8月31日が3757人で、9月30日も同数でした。避難指示解除からずっと伸びていたんですけども、10月以降は減り始めているんです。これは私や町の人が想像していたよりも早いんです。約半数が65歳以上なので、いつかは減少に転じるだろうと思ってはいましたけれども、それまでは帰還者数が上回っていた。震災前の人口は1万2842人でしたが、5000人くらいにはなるというイメージでみなさん町づくりをしようと。けれども、そこまで届かないんですよね。
やっぱり絶望している。絶望が濃くなっています。そこに新型コロナウイルスの感染拡大がある。小高は原発事故で住民がいったんゼロになった地域ですから、子供や孫に「遊びにきて」って言えなかったんです。それを言って断られたら怖いというような思いもあって。放射線量も下がって、避難指示が解除された。町の復旧もだんだん進んでいることで、ようやく言えるようになってきた。19年末に浪江町とか原町区のスーパー銭湯のようなところに行くと、お孫さんを連れたお年寄りや家族が多かった。私が11年4月21日に初めて来たときには想像もできなかった光景が戻ってきたんだと思っていたら、新型コロナウイルスの感染拡大です。「県をまたいでの移動は控えるように」と言われているじゃないですか。「不要不急の外出も自粛するように」と。その言葉が他の地域よりも厳しく響きますよね。それがずっとできなかった地域ですから。
そういう絶望感が強くなっている時に、本、本屋というのは魂の避難所としての役割があるんじゃないかなと思っています。振り返ると、自分も20代のときから何度も絶望に陥っています。「もう生きていられない」という風に追い詰められたこともあるんです。そういう時は、自分のいる世界がすごく狭く感じられて、そこにひとり閉じ込められている感覚になる。どこにも抜け道がない八方塞がり、断崖絶壁という心の状態に追いやられている。
けれども、本は1冊1冊が別世界なんです。本の表紙を「扉」というように、ひとつの空間に「扉」がいくつもある。そういう場所なんですよね。今日「死にたい」と思っている人にとって、ここではない場所がある、ということは大事だと思うんです。