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「渋沢栄一」本でひもとく 利益追求を超え社会を支える 千葉大学教授・見城悌治さん

大河ドラマ「青天を衝(つ)け」(NHK)から。渋沢栄一役の吉沢亮。作・大森美香

 しばらく前なら、「渋沢栄一って誰?」と問われ、「え~と? 明治時代の実業家だったっけ!」と答えられれば、「よく知ってるね!!」と褒められただろう。これはやや極端な例えかもしれないが、知名度が必ずしも高くなかった渋沢栄一(1840~1931)が、大河ドラマの主人公になることを想定できた人はいなかったはずである。しかし、実際の渋沢は、江戸末から昭和初めまでの長きにわたり活躍し、きわめて数奇な人生を送った稀有(けう)の人物だった。

欧州見聞活かし

 その前半生を渋沢自身が1887年に語った回想録が「雨夜譚(あまよがたり)」である。農民の子に生まれ、尊王攘夷(じょうい)運動に加わり、京都で一橋慶喜に仕える。渋沢の目論見(もくろみ)に反し、慶喜が将軍に就いた後、パリ万博に随行員として赴き、そのまま2年弱欧州滞在をする。幕府が倒れ、帰国した後は、慶喜が謹慎生活を送っていた静岡で、欧州の見聞を活(い)かした経済活動を始める。その活躍を聞いた新政府に招聘(しょうへい)され、官僚となる。しかし、官を辞し、民間経済を興すことに自らの役割を見定めていく……。

 このような想像もつかない展開に溢(あふ)れる語りに、その後の回顧も加え、新たに編集出版されたのが『渋沢栄一自伝』である。幕末維新の激動を、渋沢が昨日見たかのように臨場感いっぱいに語り尽くす同書は、全く飽きずに読み進めることができる。

 ただし、それは「渋沢自身が語る半生」であるため、客観性に欠ける部分がないとは言えない。島田昌和『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』は、彼の生涯を経営史家が描き切った著作である。島田は自らの専門から、渋沢を「社会企業家」と位置づけ直し、晩年までを叙述する。また実業界の一線から引退していく1909年以降に渋沢が、道徳や教育を重んずる活動や社会・公共事業にあたった点にもかなりの紙幅を割いている。

福祉や教育にも

 渋沢の著作としてよく知られる『論語と算盤(そろばん)』(数社から刊行されている)も、そうした活動に勤(いそ)しんでいた1916年にまとめられたものである。自らの人生と「論語」の一節とを重ね合わせ、渋沢流の解釈を述べる同書は、通俗的な部分も含まれるが、現在に至るまで、経営者などに読み継がれている。

 「利益」追求を本旨とする実業家が、社会貢献(福祉、教育、国際交流など)にどう関わっていくかは、今も重要な課題である。実業家の範疇(はんちゅう)からはみ出るような渋沢の幅広い活動も知られるべきだと考える筆者は、他の研究者とともに〈渋沢栄一と「フィランソロピー」〉と題するシリーズ本を刊行中である。

 91歳の生涯を閉じる瞬間まで、社会に関わり続けていた渋沢の多岐にわたる足跡を、簡便に把握できる書物が、『渋沢栄一を知る事典』である。「事典」と言っても、無味乾燥な項目の羅列ではなく、渋沢が関連した事件、団体や交友関係などが、時代順にきわめて分かりやすく整理されている。項目(目次)はちょうど100個の設定になっており、興味ある箇所を拾い読みするだけでも楽しい。渋沢が生涯に関わった企業は、第一国立銀行など500にものぼるとされるが、各社の創業から今日に至る変遷図までも付いていて、至れり尽くせりである。

 同書には渋沢が「ノーベル平和賞」の候補に、1926年と翌年の2度推薦されたことも紹介されている。なぜ受賞がならなかったのか。それを考えることは、渋沢個人の評価のみならず近代日本の歴史全体を再吟味することに繫(つな)がるだろう。

 攘夷論者だった渋沢が維新以降、駆け抜けた歴史をどう評価するのか。渋沢の人生の真面目は幕末維新期ではなく、その後にこそ「大河」のごとき醍醐(だいご)味が詰まっていると考えている。=朝日新聞2021年2月27日掲載