生誕百年であるが、彼の作品に登場する死者たちに倣って元気に、生きているように語りたい。もちろんすでに没後30年を超えている。写真や談話記事まで収録した浩瀚(こうかん)な全集もある。彼の残した全てが網羅されているといえそうだ。同時代の読者と同じように我々も彼の作品を享受することができるわけだが、全集にも収録されなかった彼の重要な仕事がある。いや、収録不可能というべきか。それは演劇活動における「演出」そのものである。
みずから旗揚げ
安部公房を、戯曲も書くことがあるその他多くの小説家と分けているのは、演劇のグループを旗揚げしたことだ。48歳の時だった。自らその安部公房スタジオで演出も手がけ、俳優と共に汗を流した。基本、年に3演目のハイペースで、解散の年には米国ツアーも敢行した。結成時から彼の稽古場を訪ね、芝居を見続けてきたナンシー・K・シールズ教授はその観察のドキュメントを『安部公房の劇場』としてまとめている。本書で描写されているのは、本気で世界の演劇シーンを更新しようとしている著名な中年の小説家の横顔であり、独自に編み出した「安部システム」なる訓練法と真剣に取り組んでいる俳優を見守る背中である。「ボールのようにせりふを投げて!」などと指示する彼のナマの声が、本書から聞こえてくる。演出は言葉によって生まれるが、それは俳優の肉体に溶け込んで消える。稽古場でタバコを燻(くゆ)らしながら、どうだ、全集に収録できないだろ、と70年代の彼が挑発しているように思えてくる。
もっとも、演出については様々な機会に書き、語っていて全集に収録されている。中でも『内なる辺境/都市への回路』にあるレクチャーは傑作だ。グループ結成の4年前、初めて劇場で演出を手がけた時の前座のようなものだが、「演出をぎりぎりまでやっておりまして」とアタフタしている。本人も認めるようにアガっているのだが、楽しそうなのだ。鼻血を出すほど語ったと伝えられる本書後半の熱血ロングインタビューでは、身体表現に重きを置いた、彼の夢見た演劇へと今、近づいているんだというテンションが感じられる。だが、この時すでに安部公房スタジオの解散が近づいている。初期の戯曲など「文学の延長」とバッサリ言い切っている。今やっているのは「反言葉」的なものであり、求めているのは俳優の「肉体」であり、「本当にやりたいのは舞台を作ることではないか」、と。胸が締め付けられる。
彼の夢見た舞台へのこだわりという視点から、小説を読みなおす。すると新たな発見があるだろう。日夜日本語と稽古を重ねた成果だとでもいうように、安部公房の小説には匂いや音、光や感触、それらが実に巧妙に仕掛けられている。文字だけなのに五感で感じられる空間が目の前で展開し始めるのだ。
作者の熱と共に
例えば『燃えつきた地図』はその後の『箱男』よりも舞台的な濃密さ漂う長編だ。テーマの一つである〈都市〉を舞台に、失踪した「彼」を探し出すストーリーだが、探偵役ともいうべき「ぼく」の周囲に現れる関係者がひたすら怪しい。妙に非協力的なところが滑稽で笑ってしまうのだが、捜査対象である「彼」は最後まで見つからない。姿を見せないまま「ぼく」を振り回し、操ろうとするのである。まるで「彼」は演出家そのものではないか。そもそも本作は、戯曲を書いているだけでは物足りなくなった安部公房が、いてもたってもいられなくなり演劇の仕事に本格的に踏み込む時期、先に触れた初演出の2年前に発表された。読者は、当時の作者の頭の中の熱狂と共にページをめくることができる。=朝日新聞2024年3月30日掲載