なぜ市民の怒りが集団の暴力になるのか
文学、映画、音楽において暴動や反乱はよくテーマとして扱われる。自分としては、なんらかのきっかけで市民が怒りに燃えるのは理解できる。私は昨年コロナで仕事がなくなり家賃が払えなくなる半歩手前に陥った。「家がなくなるかも」という感覚は初めて味わう恐怖だった。おそらく飲食業の方々はもっと逼迫していたはず。その時、世間を騒がしていたニュースが検察庁法改正案の強行採決と、黒川弘務元検事長の賭け麻雀問題だった。
生活の感覚と乖離した政治だなと激怒した。が、そこから集団の暴力になっていく過程がまるでイメージできない。これまでの人生で経験したことがないからだ。そんなことを考えている時、SNSで『太平天国 皇帝なき中国の挫折』(岩波新書)を知った。
世界史を習ったことがある人ならば「太平天国の乱」という言葉くらいはぼんやりと知っているはず。19世紀の清で起こった巨大な内戦。自分もその程度しか知らなかった。興味深かったのは、中心人物である洪秀全の出自だ。清は、満州族をヒエラルキーの最上位に置く超多民族国家で、洪秀全は漢民族の貧しい農民。「後から来たよそ者」(p.2)というニュアンスが含まれている客家(はっか)と呼ばれるグループに属していた。客家は社会の最下層で過酷な労働に従事することが多く、差別の対象であったという。客家とはつまり、清における移民だった。
洪秀全は理不尽な貧しさから抜け出すため、科挙に人生のすべてを賭けるも失敗。ショックのあまり高熱を出し、「金髪に黒服姿の『至尊の老人』から、この世を救えと命じられる」(p.5)幻夢を見る。その後、偶然手にしたプロテスタントの伝道パンフレットを読んで、夢に出てきた老人は旧約聖書の唯一神・ヤハウェだと確信。洪秀全は、多民族国家ゆえ多神教の土地柄だった清で、さまざまな神を信じていたことが科挙に失敗した原因だと結論づけた。
しかも洪秀全がユニークなのは「キリスト教こそ太古の中国で崇拝されていた宗教であり、いまその神を信じることは、中国古来のあるべき信仰に立ち返ること」(p.8)と認識していた点。このウルトラC的発想はキリスト教の理解不足が第一の理由だが、その裏には客家の独特な感覚が横たわっていた。「客家はこうした境遇に置かれたコンプレックスの裏返しとして、『自分たちこそは中国文明の発祥地である中原(ちゅうげん)からやってきた正統な漢人の末裔である』という屈折したアイデンティティーをもっていた」(p.3)という。
そして洪秀全はヤハウェ以外の崇拝を禁じる新興宗教・上帝会を立ち上げる。清のエリートが信仰している儒教はもちろん、皇帝すらも否定する。ヤハウェ以外は全員敵。客家の客家による客家のための宗教。それが上帝会だった。一気に信徒を増やし、1851年には洪秀全を天王とする「太平天国」という国として清王朝に武装蜂起。約14年に及ぶ死闘を繰り広げ、死者は2000万人以上と言われている。
人権運動のキーワードになったBLM
この本を読むまで「太平天国の乱」は宗教的な軋轢から生まれたものだと思っていたが、根底にあるのは差別だった。なるほど。確かに歴史を振り返ると、反乱は圧倒的に弱い立場にいる人たちの我慢が限界を超えた時に起こることが多い。今日では香港の雨傘運動、そしてアメリカのブラック・ライブズ・マター運動が真っ先に思い浮かぶ。そこで本屋で見かけた『ブラック・ライヴズ・マター 黒人たちの叛乱は何を問うのか(以下、BLM書)』(河出書房新社)を読んでみた。この本はアメリカにおける黒人の立場、1960年代の公民権運動との違いなど、さまざまな角度からBLMを解説したものだ。
「Black Lives Matter」という言葉が生まれたのは2013年。17歳の黒人少年・トレイヴォン・マーティンを勝手に不審者と思い込んで射殺した自警団員のジョージ・ジマーマンが無罪判決を受けた際、黒人女性・アリシア・ガルザがフェイスブックに書き込んだ投稿にあった言葉だ。それがハッシュタグとして拡散されるようになり、さまざまな平和的運動を通じて黒人の人権運動のキーワードになっていった。
ヒップホップの文脈で言うと、ケンドリック・ラマーの「Alright」がデモのアンセムとなっている。2015年3月に発表されたアルバム「To Pimp A Butterfly」に収録されたこの曲に政治的な意味が付与された経緯を、同書はこう説明する。
「(2015年)6月6日にニューヨークでカリーフ・ブラウダーが22歳で自殺しました。彼は2010年、当時16歳の時に盗みの疑いで捕まり3000ドルの保釈金が無いために無実にもかかわらず3年間刑務所に収監され、トラウマから鬱病を発症。(中略)その1ヶ月後の7月13日にテキサス州でサンドラ・ブランドという女性が車線変更時にウィンカーを出さなかったってことで留置場に入れられ、その数日後に自殺するという事件が起こりました。これら一連の事件への抗議で“We gon’ be alright”と歌いながら歩いたことが始まりだったと言われています」(p.104 ※カッコ内の追記は筆者)
アメリカにはレイシャル・プロファイリングという言葉がある。これは「白人の警察官は、ある特定の人種的特徴をもった人物をとくに、職務質問や検問、捜査の対象とする。たとえば多くの白人警官が『黒人を止めるほうが効率的に麻薬を発見できる』と公言し、『外観から“怪しい”と思った車を止め、乗っている人物の身体検査と、車中の捜索をする』」(p.42)ことが日常化していること。
貧しい黒人を直撃したコロナ
日本ではまだ人種の多様化が進んでいないため、実感が湧きづらいかもしれないが、例えば学校や職場、バイト先で仲良くなった友達が、何の罪もないのにその外見だけで突然警察に押さえつけられ、命を落とし、しかも警官は何も罪に問われなかったら、あなたは何を感じるだろうか?
しかもそれが1回や2回ではなく、数百年に渡って日常的に行われていたら。それを自分でも理解できるレベルで痛感させられたのは、『ディス・イズ・アメリカ 「トランプ時代」のポップミュージック(以下、TIA書)』(スモール出版)を読んでからだ。
とても象徴的だったのは、ビリー・ホリデイやニーナ・シモンといった名シンガーにカバーされてきた「奇妙な果実(Strange Fruit)」というナンバーにまつわるエピソード。この曲は1930年にインディアナ州マリオンで撮影されたおぞましい写真を元に書かれた。その写真とは、リンチで殺された黒人2人を木に吊るし、それをバックに記念撮影する大勢の白人たちを撮ったもの。歌詞は以下の通り。
「南部の木々は奇妙な果実をつける/葉には血が流れ、根にも赤い血が滴り落ちる/南部の風に揺れる黒い体/奇妙な果実がポプラの木々から垂れている/雄大で美しい南部ののどかな風景/飛び出した眼とひずんだ口/マグノリアの甘くさわやかな香り/そこに突然漂う焼け焦げた肉の臭い/ここにもひとつ、カラスについばまれる果実がある/雨に打たれ、風にもてあそばれ、太陽に焼かれ朽ち、やがて木々から落ちていく果実/ここにもひとつ、苦くて奇妙な果実がある」(p.116)
パブリック・エネミーは1992年に発表したシングル「HAZY SHADE OF CRIMINAL」のジャケットにこの写真を使った(MVの冒頭にも出てくる)。
つまりアメリカにおける差別は点ではなく線として連綿と続いている。そこにコロナ・パンデミックが貧しい黒人を直撃して「政治/経済/社会的亀裂を物質的に開いた」(p.140)とBLM書は指摘している。
だが希望もある。それは2020年のデモには白人、そして若い世代が多く参加していたというのだ。BLM書は「白人にとって黒人の問題は自分たちの問題でもあると感じられるようになってきました」とし、その背景には市場の変化があると指摘している。「大手企業がBlack Lives Matterを支持した理由の一つは、若い顧客から目を背けられたら困るからです。ミレニアル世代やZ世代とかが今度の選挙では最大の有権者ブロックになるわけで、この世代に嫌われ反発されると未来がない。そうなると企業も声を上げていかざるをえない。企業はメディアやイベントに対する影響力もあります。歴史的にも、市場の力を通してアメリカ社会が変わってきた側面がある」(p.18/BLM書)。悪く言えば企業はBLMを自社PRに利用している面があるが、それが若い世代に良い影響が与える一助になっているのであれば、そこのみは素晴らしい。
TIA書には19歳のシンガーソングライター・ビリー・アイリッシュのコメントが紹介されている。
「もしこれから“aLL LiVeS maTtEr”(すべての命が大切)と言ってくる白人がひとりでもいたら、私はマジで頭がおかしくなる。誰もあなたの命が大切じゃないなんて言ってない。誰もあなたの人生がたいへんじゃないなんて言ってない。そもそも、あなたのことなんて誰も話してない。あなたたちって、いつだってなんでも自分たちの問題にすり替えてしまう。これはあなたについてのことじゃない。だから、なんでもかんでも自分のことにして語るのはやめて。あなたは助けが必要なわけじゃないし、危機にさらされているわけでもない。あなたの好き嫌いにかかわらず、あなたは特権を受けているの。あなたがただ白人であるというだけで社会から特権を与えられているの。もちろん、それでも貧乏になることもあるかもしれないし、苦労することもあるかもしれない。でも、だとしてもあなたはその肌の色で自分が思っている以上に特権を得ているの」(p.265)
エンターテインメントはステイトメント
『太平天国』の著者はあとがきで「社会的な弱者が声をあげようとするとき、暴力を伴う形でしか自分を表現できない社会のあり方こそが問題なのだ」(p.248)と総括していた。そういう意味では、黒人たちはエンターテインメントで声をあげ世の中で変えようとしている。
現代は洪秀全の時代とは違う。多様な価値観を文章や音楽、映像で簡単に知ることができる。あまりに情報量が膨大で、しかも手軽に見聞きできるから、私たちはそれらをつい右から左へ消費してしまう。だが歴史や背景、文脈を知ると受け止め方が変わる。ケンドリック・ラマーも、ビヨンセも、映画「ブラックパンサー」も。単なるエンターテインメントではなく、実はステイトメント(発言)だったことがわかるのだ。それこそが現代におけるマイノリティたちの告発であり、反乱なのだ。
私たちは楽しみながら自分をアップデートし、世の中を良い方向に導ける時代に生きてる。「『白人の若者が、フェス感覚で(デモに参加して)抗議して一体何が変わるんだ?』という斜に構えた意見の人もいます。でもキング牧師の言葉の通りやり続けなくてはいけないと皆真剣です」(p.108/BML書 ※カッコ内の追記は筆者)。だから私たちはエンターテインメントを消費するのではなく、真剣に楽しまなくてはならないのだ。