スケッチブックから生まれた物語
―― 『二分間の冒険』や『扉のむこうの物語』など、小学校での日常の中に不思議さが混ざるファンタジー作品を多く書かれていますが、「こそあどの森の物語」は、はじめから異世界が舞台です。どのようにして物語が生まれたのでしょうか。
こそあどの森は、スケッチブックにいろいろと絵を描く中から生まれました。最初のスケッチブックを見てみると、1ページ目に主人公スキッパーの絵と、彼の住む、ずんぐりした船にウニを載せたような形の「ウニマル」という家が描かれていますね。1992年1月2日とあるから、1巻『ふしぎな木の実の料理法』が出る2年前の、お正月から描いていたようです。
ここに描かれているスキッパーは、実際の本の中のスキッパーとは少し違っています。耳が大きいのは同じだけれど、しっぽが生えている。他の住人にもしっぽを描いていましたが、物語が完成する頃にはなくなりました。ウニマルの形や内部の様子も細かく考えています。とげが煙突になっていたり、書斎があったり、缶詰めが並んだ倉庫があったり。家で使うのはどんなカップにしようかとか、そんなところまで考えてスケッチブックに描いていきました。
―― やかんを半分土に埋めたような、ポットさんとトマトさんの「湯わかしの家」や、ふたごが住む完全防水の「巻き貝の家」など、こそあどの森のちょっと風変わりな住人たちとユニークな家は、そんな風にスケッチブックに描く中で生まれたわけですね。
他の本では、あまりそういうことはしないんですけどね。登場人物についても、それまでは「この物語をつくるためには、こういう役割の人が必要だ、その役割をこの人に担わせよう」と考えてつくり出していたので、名前も役割と絡めて、何かをはじめにする人だから「始(はじめ)」とか(『びりっかすの神さま』)、わかるから「悟(さとる)」とか(『二分間の冒険』)、そんな風につけていたんです。
でも、こそあどの森の場合はそうではなくて、名前が名前としてあって、スケッチブックに描いたり、物語を書き進めたりするうちにそれぞれの人となりが積み上がってできあがっていく、そういうような付き合い方をしてきました。物語が進むにつれて、それぞれの新しい面が見えてきて。自分にとってもすごく面白い体験でしたね。
大人にも子ども時代がある
―― 2017年に出版された12巻『水の森の秘密』でシリーズ完結となりましたが、今回、番外編を書こうと思われたのはなぜですか。
読者の皆さんから、終わってしまって寂しいという手紙をたくさんいただきましたし、僕自身、長年付き合ってきたこそあどの森の世界と離れてしまうと寂しかったというか、もう一度あの世界に戻ってみたいなという気持ちが湧き起こってきたんですね。ただ、12巻で完結と言った手前、まったく同じようなものを続きとして書くわけにはいかない。それで番外編ということで、今までとは違う感じの取り組みにしてみました。
―― 『こそあどの森のおとなたちが子どもだったころ』は、こそあどの森の子どもスキッパーとふたごが、一枚の写真をきっかけに、トワイエさんやトマトさん、ギーコさんら5人の大人たちに子ども時代の話を聞かせてもらう、というストーリー。5つの話からなる短編集のような形になっていますね。
短編みたいなものを重ねようかというアイデアが最初にあって、いろいろと案を出していく中で、そうだ、大人たちが昔の話をするというのがいいんじゃないかなと。
今回も1巻のときと同じように、スケッチブックを描くところから始めました。それぞれの子ども時代のアルバムのような感じで、5人分で5冊。一人ずつ、思い出を切り取るようにして描いていくと、それぞれの物語がだんだん決まってきました。
―― 子どもにとっては、大人にも子ども時代があったのかと気づくいい機会にもなりそうですね。
大人にも子どもの頃があったんだ、というのは、ちょっとした驚きですよね。僕は小さい頃、親父と一緒にお風呂に入っていたときに、ひざに青い傷を見つけたんです。「それどうしたん?」と聞いたら「子どもの頃、野原で走ってて、ビール瓶の欠片かなんかが刺さって、えらい血が出て。そんときの傷跡や」と。僕は傷のことよりも、父に子ども時代があったことの方にびっくりしてしまって(笑)。頭の中で、昔風の短い半ズボンを履いた少年が向こうに走っていく後ろ姿を思い浮かべたりしましたね。
この本をきっかけに、昔の写真を引っ張り出してきて話をする、なんていうのもいいかもしれません。
大事なのは「本当らしさ」
―― 岡田さんは2007年に定年退職されるまで、図工の先生として小学校に勤務されていましたが、小学校の子どもたちと図工の先生という距離感は、こそあどの森の子どもたちと大人たちのそれと近いような気がしますね。
こそあどの森には、親が出てこないんですよね。もちろん、話の中で誰かが父親的、あるいは母親的な役割を担うことはあるのだけれど、本当の父親、母親は登場していないんです。
親子関係というのは、必ずしもいい面が出るとも限りません。たとえば、子どもは望んでいないのに、あたかも本人が望んでいるかのような感じで、受験のようなところに組み込んでいってしまったり、この子はどうしても医者にするんだと親が決めてしまったり……。親が子どもの人生を自分のものにしてしまう、というのでしょうか。それはちょっとどうなんだろう、という気持ちがずっとありました。
あるとき、6年生の子どもが「先生、おれな、中学校行きたないねん。アパート借りて、王将で働くねん」と僕に言ってきたことがあって。つまり彼は、学校と家庭、両方を拒否しているんですよね。その両方で、何かしら彼にプレッシャーを与えるものがあって、嫌だと感じたのでしょう。
初めから意図したわけではありませんが、こそあどの森には、学校もなければ親もいませんでした。すてきな環境をつくろうと思ったら、そうなってしまったんです。でも母親的なもの、父親的なものは必要で、そういう部分はトマトさんなり、ポットさんやトワイエさんたち、そしてあまり物語に出てこないバーバさんが引き受けてくれます。彼らはとても親身にかかわるけれど、自分の人生を押しつけることはない。そういう距離感は、言われてみれば、勤めていた小学校の子どもたちと図工の先生の僕にもあてはまるかもしれません。
―― 物語を紡いでいく上で大事にしていることは何ですか。
本当らしさ、みたいなことかな。たとえば今回の本では、最初のトワイエさんの話の中に、前を歩くカラスの「爪が床にあたるかわいた音」という表現が出てくるのですが、こういうのは自分でも書きながら「いいぞ」と思うんです。本当のことを積み重ねることで、不思議なことが見えてくる。ありうる、知っている、ということをたどっていくうちに、ありえないところまで行ってしまう。そのためにリアリティを保証するというのでしょうか。そういうことはわりと考えている気がしますね。
―― 8月には「こそあどの森の物語」シリーズ6巻『はじまりの樹の神話』が劇団四季のファミリーミュージカルとなって上演されます。
こそあどの森は、劇団ガッドスミスさんが先日、『まよなかの魔女の秘密』をミュージカル上演してくれましたし、『森のなかの海賊船』も舞台化されたことがあります。僕自身、高校時代から演劇をやっていたので、僕の作品は舞台との相性がいいのかもしれません。
小学校に勤めていたこと、演劇をやっていたこと、マンガを描いていたこと、僕が児童文学作家になったのは、この3点セットがあったから。デビュー作の『ムンジャクンジュは毛虫じゃない』も、もとは「物語を聞いて描く絵」のために書いた自作の物語が原形ですからね。
―― 児童文学の魅力とは、どんなところにあると思われますか。
物語には、自分と違う世界の、誰かのことが書いてあります。それなのに、わくわく、どきどきしながら読める。このお話好きだな、この本好きだなと思える。それは、どこかで自分の世界、自分のこととつながっているからだと思うんです。だからわくわく、どきどきできる、と。
好きになった本は、必ず読者の味方になってくれます。そばにいて、応援してくれる。そして人生は生きるに値する、人は信頼できるという方向の感触を味わわせてくれると思うのです。それこそが児童文学の魅力じゃないでしょうか。僕はそう思います。