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『「自分らしさ」と日本語』書評 私の中の「ぼく」「おれ」「わたし」

評者: 坂井豊貴 / 朝⽇新聞掲載:2021年06月19日
「自分らしさ」と日本語 (ちくまプリマー新書) 著者:中村 桃子 出版社:筑摩書房 ジャンル:新書・選書・ブックレット

ISBN: 9784480684004
発売⽇: 2021/05/08
サイズ: 18cm/231p

『「自分らしさ」と日本語』 [著]中村桃子

 私は普段、自分を「ぼく」と呼ぶ。「おれ」とは言わない。昔から自分を「おれ」と呼ぶことに抵抗がある。「おれ」の語がもつ荒い男性イメージが、自己イメージに馴染(なじ)まないからだ。「ぼく」の語も、自己イメージと完全に一致するわけではないが、「おれ」よりは近い。
 「ぼく」と「おれ」はともに男性の自称詞とされている。しかし小中学生の女子は、ときに自分を「ぼく」「おれ」と呼ぶ。私自身、自分の娘やその友人が、そのように言うのを聞いたことがある。自分が小学生のときも、そう言う女子はクラスにいた。著者はその歴史はさらに古いのだという。そしてそれは言語学の問題なのだという。
 「ぼく」は明治時代の「書生ことば」から来ている。明治5年の学制により、公式に学生となった女子のなかには、自分を「ぼく」と呼ぶ人が現れた。自分を「女子学生」ではなく「学生」ととらえ、書生ことばを選んだのだ。ことばの選択は、自己イメージの選択である。大人の女性的な「わたし」は選ばなかったのだ。
 男子は幼児期に自分を「〇〇くん」と呼ぶが、少年期に「ぼく」や「おれ」に変わり、大人になると「わたし」が加わる。ところが女子の自称詞には「ぼく」や「おれ」に対応するものがない。幼児期に自分を「〇〇ちゃん」と呼んでいても、その次はいきなり大人の女性と同じ「わたし」なのだ。そこで少女はときに、子どもでも大人でもない女性の自称詞として、「ぼく」や「おれ」を用いる。著者はこれを「ことばの不足を超越した創造的な行為」だという。
 自分をどう呼ぶか、他者からどう呼ばれるかは、自分をかたどるものだ。そこには呼び方の強制という、権力をめぐる問題もともなっており、婚姻改姓はその例だ。言語学者の著者はこのような、ことばを巡る問いを考える。文章は軽やかで、説明は鮮やか。言語学ってこんなに面白いのか、なんてスリリングなんだと思わされる。
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なかむら・ももこ 1955年生まれ。関東学院大教授(言語学)。著書に『新敬語「マジヤバイっす」』など。