あるとき河合さんのつぶやいた言葉が今でも心に残っている。「日本のサル学はな、あの戦争で人間性というものをとことん見直してみようというところから始まったんや」。戦後の混乱と貧困のどん底で、今西錦司を中心とする日本のサル学は欧米に10年先駆けて始まった。河合さんはそのグループの一員であり、最後の生き残りだった。草創期(1950年前後)、病気がちだった河合さんは自宅でウサギを飼って、その順位関係を調べたのだが、その河合さんが誰よりも長生きしたのは、きっと天からこの歴史を語り継ぐことを命じられたからだろう。
人間の特徴とは
第一世代のサル学者は、欧米の学界が人間だけの特徴と見なしていた社会と文化がサルにも認められることを立証した。河合さんはその先端を切って進む同僚たちから少し距離を置いて、サル学が進展していく有り様を冷静に描いた。それが『ニホンザルの生態』(64年)で、日本のサル学が見出(みいだ)したサルの文化的行動と社会構造の実体を見事に描き出している。京都大学の研究者は自分の体験、発見や理論を本にすることはあるが、総論や教科書を書くことは好まない。その中で、この本は当時のニホンザル研究の全体像が総覧できる貴重な記録と言えるだろう。
河合さんにはけがや病気の体験が満載である。最初のアフリカ行きでゴリラに襲われて脛(すね)に裂傷を、ジープ運転中に転倒して鎖骨と肋骨(ろっこつ)を計8本骨折する重傷を負っている。日本モンキーセンターが輸入したゴリラから結核に感染し、肺が溶けだしてもはや助からないと親族一同が集まったことがある。しかし、アフリカ奥地の菌だったせいか奇跡的に抗生物質が効いて回復した。その後は片肺飛行でウガンダやカメルーンの熱帯雨林に遠征し、数種のオナガサルやマンドリルの調査を実施した。その際、ロアロアという寄生虫が身体に入り、しばらく皮膚の下を動き回った。日本でお会いした時、「たった今までここにおったんや」と腕に残った痕跡を見せてくれたこともあった。
エチオピアの標高4千メートルを超える高原でのゲラダヒヒの調査は、とてもつらかっただろうと思う。でもそんな苦労はおくびにも出さず、辛抱強くヒヒたちに接近し、ついに何百頭という大群をつぶさに観察するようになる。その驚くべき社会の実態は『人類進化のかくれ里』(84年)に詳しく記されている。霊長類の故郷である熱帯雨林から遠く離れ、しかも樹木のない草原で大集団のサルが平和に暮らしている姿を見て、河合さんの脳裏には戦争に突き進んだ人間の姿が浮かんだのではないだろうか。
少年の心に戻る
河合さんを語るうえで欠かせないのが、草山万兎(くさやままと)というペンネームで世に出した数々の動物文学である。幼い頃シートン動物記に憧れ、自らシートニアンと称した河合さんにとって動物記を書くことは長年の夢だったのだろう。このペンネームには自らが生まれ育った里山の風景と、飼いウサギの研究の思い出が詰まっている。また、河合さんは宮沢賢治の小説を生態学者の立場から見事に解説していて、これも深い示唆に富んでいる。
ただ、やっぱり最後に挙げるとすれば『少年動物誌』(2002年)だろう。河合さんの分身と思われるマト(万兎)と呼ばれる少年が、里山の自然の中でたくさんの動物たちと戯れる。そこには人間性の進化を追い求めてきた河合さんが、長い旅の末にたどりついた境地が示されている。人間は常に少年の心に戻らねばならぬ。私はそれをこの上なく清々(すがすが)しく思う。=朝日新聞2021年7月17日掲載