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「貝に続く場所にて」書評 現れた知人は震災の行方不明者

評者: 江南亜美子 / 朝⽇新聞掲載:2021年07月31日
貝に続く場所にて 著者:石沢 麻依 出版社:講談社 ジャンル:小説

ISBN: 9784065241882
発売⽇: 2021/07/09
サイズ: 20cm/151p

「貝に続く場所にて」 [著]石沢麻衣

 夏の陽光が明るく射(さ)すドイツの大学都市の駅舎に、9年前の震災で行方不明になったはずの知人が姿を現すのを、「私」は待つ。死者なのか、生者なのか。物語は、歴史の堆積(たいせき)と記憶の地層の奥に読者をいざなうように、静かに始まる。
 本書が描かんとするのは、物事や人との距離の伸縮についてである。「私」は震災の体験者だが津波による被災は免れた内陸部出身であり、とつぜん来訪が予告された野宮とはかつてもいまも、濃い人間関係を築いた間柄ではない。時間的にも空間的にも隔たりのある微妙な距離感。しかしそれは、忘却することの怖(おそ)れや贖罪(しょくざい)の念へと反転し、「私」に迫ってくるのだ。
 野宮とはたしかに駅舎で再会した。ただしコロナ禍で顔半分がマスクに覆われたその顔は、解像度が低い。幽霊との疑念が拭いきれない彼との再会は、震災にまつわるさまざまな記憶を呼び起こさせる。買い出しの蛇のような長い行列、余震に怯(おび)える飼い犬の背中の手触り、空腹と寒さを紛らわすリズムなき足踏み……。心象風景と現在のゲッティンゲンでの暮らしが、モンタージュのように複雑に繫(つな)がりあっていく。
 「あの時間の向こうに消えた人々の記憶を、どのように抱えてゆけばよいのだろうか。名前が擦り切れるまで、記憶の中でなぞるしかないのか」
 表面上は均(なら)された土地も、地層には厄災の跡が刻まれている。物語の終盤、「私」の背中から歯が生えるとの奇想が、静的な本作にどこかユーモラスなアクセントを与えるが、しかしそれは、個人の強迫観念の顕現であり、忘却への強靱(きょうじん)な抵抗とも読めるだろう。
 かつて月沈原との漢字があてられた町に設置された太陽系の20億分の1の縮尺模型や、寺田寅彦との縁など、衒学(げんがく)的ムードも漂わせながら、難解に陥ることのない本作。著者にとってのデビュー作で、芥川賞受賞作でもある。楽しみな作家がまたひとり誕生した。
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いしざわ・まい 1980年生まれ。東北大大学院修士課程修了。現在はドイツ在住。本作で第165回芥川賞受賞。