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翻訳を生きる:1 嵐をやり過ごす、私だけの世界 イタリア文学・飯田亮介

絵・三溝美知子

 久しく旅に出ていない。

 コロナ禍のせいにすることもできるだろうが、単に中年になってフットワークが重くなっただけなのかもしれない。気づけば腰のチャンベッラ(イタリア語で「浮輪」。日本語なら「ビール腹」?)もこのところやけに簡単に膨らむようになった。暑い夏に冷たいビールがおいしいのは、困ったことに、日本もここイタリアも同じだ。

 でも「今、どこに旅に行きたい?」と問われたとしたら、私は南のシチリア島に行きたい。

 あなたはシチリアにどんなイメージを持っているだろう? いまだに「マフィアの島」という印象しかない人も多いのかもしれない。でも奥深い魅力のある島だ。だって、いい大人が朝っぱらからジェラートをパンに挟んで食べる土地なんてほかになかなかないでしょう?

 シチリアの独特な風土はぜひ、刑事ドラマ「モンタルバーノ ~シチリアの人情刑事~」とその原作小説「モンタルバーノ警部シリーズ」で味わってほしい。どちらも絶景からおいしい料理から情熱的な恋まで、島の魅力がいっぱいに詰まった作品だ。

 作者のアンドレア・カミッレーリ(一九二五~二〇一九)はシチリア出身の、イタリアでは国民的人気を誇るミステリー作家だ。「モンタルバーノ」は全部で三〇作以上もある長寿シリーズだが、日本ではまだ二作品しか刊行されていない。機会があればぜひ訳してみたい。

山と友情を描く

 そう言えば、久しく山も登っていない。

 丘陵地帯の我が家からバイクで一時間ほど西に走ると、二〇〇〇メートル峰の連なるシビッリーニ山地国立公園がある。羊飼いにもよく出会う、のんびりした静かな山々をカメラに収めながら独りで歩くのが好きなのだが、コロナ禍以降、なぜか週末の山の混み具合が半端ない。世間が落ちついたら行こうと思いつつ、もう半年ほどご無沙汰だ。

 山麓(さんろく)に暮らす友人たちにも会いたい。高い峰々に囲まれて暮らしているためか、彼らにはどこか悠然としたところがあって、時々とても懐かしくなる。

 そんな山人たちの静かで強く、でも優しさと激しさをうちに秘めたたたずまいをとても見事に描いた小説がある。コニェッティ(一九七八年~)の『帰れない山』だ。町の男と山の男の友情を描いたこの作品でコニェッティは、イタリア最高峰の文学賞であるストレーガ賞を二〇一七年に受賞している。

 山も人も季節ごとに変わる、それでもいつまでも変わらぬものもあるのではないか――そんな感情を語り、過ぎ去りし季節への郷愁を語った物語だ。

SNSを離れて

 旅も山もいわば現実逃避の手段だ。逃避と言えばどうしても消極的に響くが、人生には現実から「積極的に」目をそらし、いったん嵐をやり過ごすことが必要な場面もままあるものだ。もしかすると究極の現実逃避とは、頭の中で空想の世界の住人になることなのかもしれない。

 例えばル=グウィンのファンタジー小説『ゲド戦記』がいい。

 少年時代の私は、こうした世界を心の片隅にいくつも持つことで随分と救われた。ページをめくれば、いつでもそこに自分だけの世界が広がるというのは本当に心強かった。

 今ならば読書ではなくても、スマホのSNSに逃げてもよいのでは? と思う方もいるかもしれないが、たいていの場合、画面の中の世界は現実の延長に過ぎないのではないか。心の中に広がる世界の大きさ、自由に想像する楽しさ、そのあたりでファンタジー小説にはとてもかなわない気がする。

 はてしなく広がる魔法と竜の世界、アースシーへようこそ。=朝日新聞2021年7月31日掲載