情報過多社会と民主政 未来は主権者の判断に託される 上村剛

民主政(デモクラシー)は古代ギリシアが模範だと長らく理解されてきた。近代の代議民主政はその劣化版にすぎない。ホッブズといえば絶対王政の擁護者であり、直接民主政を擁護したルソーはホッブズと対照的な人物だ――大学の試験で、こんな生成系AIめいたことを答案で書いたら、いい成績は見込めないかもしれない。
リチャード・タックの『眠れる主権者』(小島慎司ほか訳、勁草書房・4950円)は、主権概念の歴史を捉えなおし、特にホッブズとルソーの常識的理解を揺さぶる。
主権は統治の権力、たとえば立法権力をもつこととは、意味が違う。近代の思想家たちが発明したのは、この「主権」と「統治」の区別である。これがタックの中核的主張だが、それで何がわかるのか。以下の三点だ。
(1)私たち主権者に可能なことは、統治権力を行使する人間を選出し、統治の方法を決定するだけである。
(2)代議民主政は、その意味で主権の行使である。他方、人々が直接集まって政治を行うことは、統治権力の行使なので、主権ではない。だから古代ギリシアの民主政と代議民主政は質的に異なるし、後者は前者の劣化版ではない。
(3)主権と統治の区別を強調した点でホッブズとルソーの発想は似ている。ホッブズにも人民主権論的な理論があるし、ルソーも個人が代表を選出することは肯定していた。
以上のようなタックの議論は、実に魅力的である。過去の常識は、こうした新説とともに絶えず揺さぶられるのだから。
では、古代アテナイの民主政を理想とする理解は、なぜ流通しているのか。
この疑問に示唆を与えるのが『ギリシアへの陶酔』(村田陽〈みなみ〉著、ナカニシヤ出版・4950円)だ。村田は、古代ギリシアの復権に大きな役割を果たした19世紀イギリスの歴史家ジョージ・グロートと、哲学者J・S・ミルのギリシア民主政理解に光をあてる。18世紀までのヨーロッパでは、民主政の評価は概して低かった。「民衆扇動家(デマゴーグ)」が人々に迎合し、好戦的な政策を実行したことで衰退した、と理解されたからだ。
劇的にギリシア民主政評価が高まるのは19世紀である。同時代のイギリスの議会改革と民主化の進展を背景に、再解釈が試みられた。グロートとミルはその文脈で、民衆扇動家を擁護する。野党のように反対意見を提示する価値があるからだ。言論の自由が保障され、活発な議論が展開されてこそ、民主政は光り輝く。
こうして私たちにも馴染(なじ)み深い民主政観のきっかけが生まれた。私たちの常識や伝統と呼ばれるものが、過去の歴史のある時点で構築されたことを、本書は教えてくれる。
古典古代の知恵は甦(よみがえ)り、姿を変えて私たちの社会にある。だが新たな問題も。SNSの登場による情報伝達力の変化が、民主政に悪影響を及ぼしている。もはや民衆扇動家やデマといった問題は、楽観できない。『フェイクニュースを科学する』(笹原和俊著、DOJIN文庫・990円)は、偽情報や陰謀論の蔓延(まんえん)する情報過多世界を、計算社会科学の知見からまとめる。怒りなどの感情は伝わりやすく、政治の誤情報は事実よりはるかに速く拡散する。
いま一度、誰しもが自分の認識能力を再確認する必要がある。画面の向こう側にいるのは人間ではないこともある。私たちの善意は見えない誰かに悪用され、排外主義に与(くみ)しているかもしれない。政治的なニュースがどうやって画面に表示されているのか。そのメカニズムを知ることがまずは重要だ。
主権にも、民主政にも、別の過去と未来がありえたと、歴史は教えてくれる。情報過多社会の政治の未来がどうなるか。それは主権者の確かな判断に託されている。=朝日新聞2025年7月19日掲載