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夏にこそ読みたい「雲州下屋敷の幽霊」 澤田瞳子が薦める新刊文庫3冊

澤田瞳子が薦める文庫この新刊!

  1. 『雲州下屋敷の幽霊』 谷津矢車著 文春文庫 814円
  2. 『夏の坂道』 村木嵐著 潮文庫 990円
  3. 『深尾くれない』 宇江佐真理著 朝日文庫 880円

 夏にこそ読みたい三冊。

 (1)江戸期の様々な事件に材を取った五編の短編集――と見せかけて、思わぬ仕掛けが施された一冊。歴史と物語、近世と近代、そして虚と実。数々の表裏一体の存在と人間の業を追及する作者の眼差(まなざ)しには、つい居住まいを正すほどの冷ややかさが垣間見える。暑さ厳しき季節にこそふさわしい、残酷で恐ろしく、不思議に美しい物語である。

 (2)本作の主人公・南原繁は東京帝国大学教授として戦前戦中を過ごし、終戦直後に東大総長となった政治学者。本作は多くの教え子・同僚との別離や彼らへの迫害に苦悩した彼の半生を丁寧にたどることで、正義と真理の希求の尊さを描いた静かなる戦いの物語である。近年、明治期以降を舞台とする歴史小説が相次いで刊行されているが、その多くに共通するのは日本の近代をいかに理解すべきかという問題意識。本作は自由の主体たる人格の確立を目指す教育基本法制定にも関わった南原を通じ、戦後日本、ひいてはこれからの日本のありかたについても疑問を投げかけている。

 (3)江戸の市井の人々の哀歓を捉えることで知られた作者には珍しい、実在の剣豪を主人公に据えた長編小説。深尾くれないとは彼が深く愛した牡丹(ぼたん)の名である。後妻と娘、二人の女性の眼(め)を通じて描かれる剣客の姿は不器用で寒々しく、だからこそ読み手の胸には牡丹の紅色が強く刻まれる。偉人としての剣豪ではなく、一人の男としての生きざまに焦点を据えた痛々しいほどの侍の物語である。=朝日新聞2021年8月7日掲載