1. HOME
  2. コラム
  3. 大好きだった
  4. 小川哲さんが作家としての文章化を拒むほど愛したサッカー選手デニス・ベルカンプ

小川哲さんが作家としての文章化を拒むほど愛したサッカー選手デニス・ベルカンプ

 小説家という職業には、普通に生きていたら経験することのない、驚くべき利点がいくつも存在する。そのうちの一つは、「趣味が仕事になる」ということだ。いや、もっと率直に言おう。小説家は「好きなものを金にできる」のだ。

 ほとんどの小説家は読書が好きなはずで、読書の喜びを創作という形で仕事にできる——そんな生ぬるいことが言いたいわけではない。読書だけではないのだ。作中では好きな映画の話をすることもできるし、好きな音楽の話をすることもできる。アニメもゲームも、食べ物も飲み物も、なんだっていい。登場人物の姿を借りて、自分の好きなものを臆面もなく他人に押しつけることができる。

 創作に限った話ではない。四回にわたって書いてきたこの文章もそうだ。エッセイや評論の中で、好きなものへの愛を、好きなだけ書くことができる。そしてそれが原稿料という形でお金に変わる。自分でもときおり「そんなことが許されるのか」と驚く。

 みなさんは夜更かしして漫画を読み漁ったり、海外ドラマに夢中になって寝不足になったり、休日に一日中ゲームをしたりして、罪悪感に襲われた経験がないだろうか。小説家はその罪悪感を無効化する魔法の呪文を持っている。「作品のため」というものだ。面白いコンテンツには何か理由があるはずで、その構造を理解するために楽しんでいたのだと自分に言い聞かせれば、罪悪感が(僕の場合は)消滅する。経理や人事の仕事に『HUNTER×HUNTER』や『ウォーキング・デッド』の知識を役立たせるためには難解なロジックが必要になると思うが、小説家であれば簡単だ。

「好き」だけではない。「嫌い」や「退屈」、「悲しみ」や「驚き」など、どんな経験であれ、小説家は仕事と結びつけることができる。小説家に「無駄な経験」や「無為な時間」は存在しない。そのすべてが創作の糧になる(という言い訳をすることができる)。

 小説家は、ありとあらゆる人生の局面を「仕事」に昇華する。一見して、その事実は非常に恵まれた点であるように見えるが(実際に恵まれた点なのだが)、見ようによっては不幸な業を背負うことにもなる。小説家は、純粋な観客の立場としてコンテンツを楽しむことができない。面白いものに出会えば、その面白いものが「なぜ面白いのか」と分析しようとしてしまう。すべての体験の中に、その体験を整理し、言語化しようとする悪魔が介在するのだ。この「悪魔の視点」は、小説家がコンテンツの素晴らしさの中で溺れることを許してくれない。かけがえのない体験が言語化され、奇跡が箇条書きされていく。小説というジャンルが「世界のすべて」を文章で表現しようという野蛮な挑戦である以上、人生のあらゆる局面が文章に直されてしまうのだ。

「好きなもの」を仕事に活かすということは、「好きなもの」を文章に置き換えるということだ。文章に置き換えた瞬間、その素晴らしさの一部が損なわれてしまうことを自覚しながらも、小説家はこの作業を止めることができない。これが小説家の背負った業であり、完治することのない職業病である。

 そういう事情もあって、僕は自分のいくつかの趣味を「仕事」にしないよう、細心の注意を払っている。その素晴らしさを分析し、不用意に言語化しないと心に決めているのだ。デニス・ベルカンプもそのうちの一つだ。僕は中学生のとき、このオランダ人サッカー選手がプレイする姿を見て、すぐに好きになった。スカパーを契約して、彼が所属するアーセナルというチームの試合をすべて観た。彼はすでに引退してしまったが、今でもアーセナルの試合は欠かさず観ている。なぜ観ているのか——「好きだから」だ。

 このエッセイは四回目だ。これまで僕は三回にわたって悪魔と契約してきたので、今回だけは許してほしい。好きだから好きなのだ。