震災が起きたとき、くどうさんは岩手県立盛岡第三高校に通う1年生だった。物語の序盤で、美術部の主人公・伊智花(いちか)が「絆のメッセージ」を込めた絵を依頼されて悩む場面がある。文芸部員だった自身も当時、「希望の短歌」を求められ、内陸でほとんど被害がなかった私が何を言えるのか、と葛藤した。
「つらい経験をした人に、つらいという内容を詠むのは違うし、〈前を向こうよ〉というメッセージを出せる立場でもないと思った。結局、自分のことを詠むしかなくて、身近な光景から詠みました」
〈おめはんど顔っこ上げてくなんしぇとアカシアの花天より降りけり〉
「“おめはんど”は岩手の方言で、あなたたち、という意味。この作品に『救われました』というメッセージも多く頂いたんですが、この歌を詠んだことが被災地の方にとって、私にとって、良いことだったのかと毎年3月11日が巡ってくるたびに考えますね」
「いつか、このやり場のない気持ちやもどかしさを書く」と決意したが、震災にまつわる作品や報道を遠ざける日々が続いた。再び震災と向き合い、書き上げるまでに10年の歳月が必要だった。
執筆にあたり、岩手、宮城、福島にゆかりがある20代の7人に話を聞いた。意識したのは「社会が求める大きな感動物語にのみこまれない」こと。「大したことじゃない」と言いつつ同世代が胸底に残していた思いに、耳を傾けた。
彼らの声を反映させた作中の一人は、「震災のときの子供ってみんな『希望のこども』としての役割を多少なりとも背負わなくちゃいけなかったんじゃないかな」と10代の日々を振り返った。
『氷柱の声』は初めて文芸誌に書いた小説だった。書き終えて思うのは、「これは『震災もの』じゃないな、ということ。どこに居たとしても、みんな震災があった人生で、私たちの日常なんです。この作品をきっかけに、当時のことをしゃべりやすくなる人がいたら、すごくうれしい」。
石川啄木ゆかりの盛岡の地で生まれ育ち、仙台での大学生活を経て、再び盛岡で暮らしている。中学時代から俳句を、高校時代は文芸部で短歌や小説、詩、児童文学を手がけた。本名の工藤玲音名義で啄木の命日に合わせてこの春刊行した第1歌集『水中で口笛』(左右社)は2刷、会社勤めの傍ら執筆し、昨年出したエッセー集『うたうおばけ』(書肆侃侃房)は4刷と版を重ねている。今後もジャンルは絞らず、題材にふさわしい器を探る。
「社会が求める感動物語」に消費されないように、これからも自分の言葉を紡いでいく。「自分の人生の手綱を自分で握るために、書き続けていきたい」(佐々波幸子)=朝日新聞2021年8月18日掲載