日本最高のマンガ家のひとり、松本大洋の4年ぶりの新作が出ました。『東京ヒゴロ』の1巻目です。
松本大洋はデビューして30年をこえますが、長編を上梓(じょうし)するたびに、ほぼ毎回がらりと題材を変えてきました。今回も初めてのテーマで、いわゆる「マンガ家マンガ」。自らの生きるマンガ界を舞台にした群像ドラマです。
「マンガ家マンガにハズレなし」、とはマンガ解説者・南信長さんの名言ですが、大方の「マンガ家マンガ」がマンガ家を主人公とするのに対して、『東京ヒゴロ』の主人公・塩澤和夫はマンガ雑誌の編集者です。このちょっとした捻(ひね)りが、マンガ業界とマンガ家たちの姿を見る視角に絶妙の屈折をあたえています。「マンガ家マンガ」は、ともすればマンガ家の人生を特別視して、過剰に美化したり、露悪的に貶(おとし)めたりしがちですが、『東京ヒゴロ』は、賢明にも、そうした定型化された罠(わな)に落ちこむ危険を避けているのです。
本作の冒頭で、塩澤は、自分の立ち上げたマンガ雑誌が廃刊に追いこまれたことの責任をとって、30年勤めた出版社を退職します。大事に集めた厖大(ぼうだい)なマンガ本のコレクションもすべて売りはらい、マンガとは縁を切って生きるつもりでいました。
しかし、整理用の段ボール箱から転げ落ちたマンガ本の数々の表紙を見たとき、とり返しのつかない何かに気づきます。その瞬間の塩澤とマンガ本を斜め上から見下ろす1ページひとコマの痛切な説得力! 塩澤はマンガ本を売るのをやめ、自分が大事に思うマンガ家だけに執筆を依頼して、自分のマンガ雑誌を作ろうと決意します。こうして、マンガ家たちをめぐる塩澤のひそやかな遍歴が始まるのです。
この作品に描かれるマンガ家、アシスタント、編集者、その周辺の人々の、大小それぞれ、個々の生活に映える人間味の陰翳(いんえい)に深く魅せられます。確かにここからは、人生にかけがえのないものを見出(みいだ)し、それを裏切るまいとして懸命に生きる人間の美しさと哀れとが滲(にじ)みだしています。
とくにすばらしいのは、各話の最後を締めくくる1ページひとコマです。たいていは何の変哲もない町の風景で、たまに人間の姿が小さく描かれます。ここには、人間たちの世界を遠くから突き放して眺めながら、その人間たちのささやかな営みを留保なく肯定するまなざしが存在しています。松本大洋の描くこんな風景のなかでなら、どんなに卑小な人間でもなぜか救われるような気がしてくるのです。=朝日新聞2021年9月8日掲載