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井伏鱒二「山椒魚」 ユーモアや批評 魅力が凝縮

いぶせ・ますじ(1898~1993)。小説家

平田オリザが読む

 多くの作家が戦争に対して様々な距離をとる中、戦前、戦後を通じて超然として見える作家もいた。井伏鱒二もその一人だ。

 十九世紀末に生まれた井伏は一九二九年、「山椒魚(さんしょううお)」「屋根の上のサワン」を相次いで発表、注目を集める。三八年には『ジョン万次郎漂流記』で第六回の直木賞を受賞した。

 初期の代表作である「山椒魚」には、井伏文学のエッセンスが詰まっている。ユーモア、批評性、叙情、諦観(ていかん)、小さき者への愛情……。「山椒魚は悲しんだ」という冒頭の一文からして、そのすべてが含まれているではないか。

 谷川の岩屋をすみかとしていた山椒魚が、ある日、自分の身体が成長して岩窟の外に出られなくなっていることに気がつく。「何たる失策であることか!」

 山椒魚は強がったり、諦めたり、再び悲しんだりを繰り返す。やがて、この岩屋に闖入(ちんにゅう)してきた蛙(かえる)との奇妙な生活が始まる。山椒魚は蛙を外に出すまいと岩屋の窓を自らの体で塞いでしまう。蛙と山椒魚は罵(ののし)り合うが、それにも疲れて長い沈黙の時間がやってくる。

 時が過ぎ、蛙の嘆息を聞いた山椒魚は蛙を許そうとする。しかし蛙は空腹で、もう動くだけの力がない。蛙は言う。「もう駄目なようだ」。では、いま、何を考えているのかという山椒魚の問いに蛙は、「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」と答える。

 年配の多くの読者は、この幕切れを強く記憶しているだろう。しかし井伏鱒二は最晩年、全集の発刊にあたって、このラストシーンをすべてカットし物議を醸すこととなった。

 井伏は45歳で直木賞の選考委員となり、さらに芥川賞の選考委員も務めた。温厚な人柄をしたって多くの文学者が彼の周りに集まった。

 一九六五年から、出身地でもある広島を題材にした「黒い雨」の連載を開始、翌年刊行。同年、文化勲章を受章。一九九三年、九五歳の長寿を全うした。=朝日新聞2021年9月18日掲載