1. HOME
  2. インタビュー
  3. 働きざかりの君たちへ
  4. 「ビジネスエリートがなぜか身につけている教養としての落語」立川談慶さん 悩める現代人に江戸の教訓を

「ビジネスエリートがなぜか身につけている教養としての落語」立川談慶さん 悩める現代人に江戸の教訓を

立川談慶さん=家老芳美撮影

肌着メーカー営業から談志に入門

――師匠も慶應大学を卒業後、会社員をしていたそうですね。

 大学時代には落研(落語研究会)で。談志の弟子になりたくて、談志のマネージャーに手紙を書いたら「焦ることはない。3年辛抱してみろ」と言われまして。1988年から肌着メーカーの「ワコール」に3年ほど勤めていました。

 入社後に福岡勤務になったのですが、この頃は吉本興業が福岡に進出するタイミングで、芸人などの募集をかけていて、福岡でやっていた『激辛!?お笑いめんたい子』というオーディション番組に出ることになりました。

 出来レースだったと思いますが、うまくいっちゃった。「俺、この世界でも大丈夫かも」って、勘違いしたんですね。これをきっかけに、会社員をやりながら福岡で芸人のライブ活動もやり始めたんです。

――ワコール社員と芸人。今で言う副業みたいですね。

 時代の先端ですよね(笑)。当時は副業禁止の時代でしたけれど、そこは「吉本」ですから、ギャラはもらっていませんでした(笑)。会社も「お金をもらってないなら、まあしょうがないね」と大目に見てくれた。

 談志のマネージャーの言葉通り、福岡で芸人を3年やった。そこから1991年に正式に談志の弟子になりました。あの頃はバブルがはじけるかどうかという時代。「こんな景気がいいのに、なんで落語家なんかに……」という目で見られたものです。

――ただ、江戸落語の世界だと「前座」を2〜3年、その上の「二ツ目」を10年ほど経て「真打」になりますが、入門してからが大変そうです。

 そうですね。たいていは真打までトータル15年ぐらいという流れでした。私の場合は二ツ目になるまで9年半。5年を超えると「この部分をクリアすればいいんだ」というのが見えてくる。でも、その1カ所だけがクリアできない自分がいるんですね。

 談志も「1カ所ぐらいなら、まあいいじゃないか」と自問自答する。でも「いや、これじゃダメだ。俺の基準があるから、他ができていてもダメだ」と昇進させなかった。

 修行時代の後半には、掟破りでしたが結婚もしていました。談志も「こいつは所帯を持った男だから、生半可なことじゃ辞めない」と意地になって昇進基準を高くする。最後のほうは根比べでした(笑)。

落語とは「失敗図鑑」

――『ビジネスエリートがなぜか身につけている教養としての落語』というタイトルで本を書かれましたが、師匠は現代も生きている落語の魅力はどんなところだと思いますか。

 江戸文化の中で培われてきた芸能といえば、歌舞伎や講談などが挙げられますが、庶民に最も近いのが落語じゃないかって思っているんです。たとえば講談は『忠臣蔵』のような武士が活躍する「軍記物」といわれるストーリーが多いイメージがあります。でも、落語は人情噺だったり、人の失敗やしくじりがテーマになっていたりするものが多いですよね。

――談志師匠は「落語とは人間の業の肯定である」という有名な言葉を遺しています。

 落語って「失敗図鑑」なんです。庶民のためのテキスト、アイテムであり、生活哲学ですよね。「こういうことをやれば、人間は怒る。怒られないようにするには、こういう振る舞いをすればいい」と教えてくれる。

――疲れているときに落語とかを聞くと、「あぁ…。要領の悪い人間も、生きていていいんだ」と存在を肯定してくれる気持ちになります。

 そういう緩やかさが落語の魅力ですよね。私も会社員時代、組織の末端としてノルマを課せられ、路面店さんに商品を仕入れてもらおうと日々営業していました。「今月は達成できなかったな」「今月は目標に届いた」みたいなやり取りばかりをしていた。

 そんな時、談志のテープを聞いて「人間、眠いときは眠い。無理なときは頑張れない」と聞いて、救われた。そこがこの本を書いた動機でもあったわけです。

 「人間は、みな弱い存在なんだ」という意識があれば、たとえ同じ部署の中で失敗したり、しくじった同僚がいても、カバーし合ったり、やさしくなれたりするんじゃないでしょうか。

与太郎は「哲学者」?

——落語を知ることで、他者へのやさしい眼差しを持てるようになるかもしれない。

 落語の中には「与太郎」という子がよく出てきます。のんびり、ぼんやりして、失敗もする。でも、落語の世界では周囲の人たちが与太郎をおおらかに受け止めている。多様性、ダイバーシティーが確保されているんですね。

 現実世界だと、ドジを踏んだ人を徹底的に揶揄したり、糾弾するみたいなギスギス感もあったりします。世の中の景気が悪くなると、1円でも多く稼いだ者が勝ち……みたいな空気が流れがちです。

 でも、落語に出てくる世界はそうじゃない。落語を通じて、いい意味での大らかさを悟ってもらえたなら、分断や不寛容が回避できるんじゃないか。そんな予感はしています。

――談志師匠も「与太郎」という存在を大切に思っていたそうですね。

 談志は与太郎について、こう言っていました。「こいつは馬鹿じゃない。ただ、非生産的なだけだ」と。世の中は生産性ばかりを追い求めて、生産的な人をよしとしがちです。でも、そこから逸脱しているのが与太郎。いうなれば「哲学者」なんですね。

 「かぼちゃ屋」という落語の中で、与太郎は「売るやつが利口で、買うやつがばかだ」と言っている。これを談志は「経済の本質だ」と言っていました。与太郎の一言が、経済活動のすべてを含蓄しているような気もします。

人間関係に疲れたら

——なるほど。古典落語の登場人物たちは、現代で人生や仕事に悩む私たちに“気付き”を与えてくれます。

 人間関係では示唆に富むものがありますね。特に今みたいな時代、リモートワークでずっと家にいると、誰かと話をする機会も減ってくる。人と対面で話す機会が少なくなり、画面上だけでのやりとりになると、コミュニケーションの齟齬が生まれたりしますよね。

――「この人と話すの面倒くさいなぁ」「上司とソリが合わないなぁ」ということも増えた気がします。

 落語がきっかけで「あ、こういう人もいるよな」と思うことも多いですよね。

 たとえば「小言幸兵衛」という話があります。主人公は、妄想力がたくましく他人に小言ばかり言う、世話焼きな大家・幸兵衛さん。いつも長屋のみんなに小言ばかり言って歩く。

 そこに紳士的な着物の仕立屋さんが部屋を借りたいとやってくる。でも、その仕立屋には若くて美男子の息子がいた。すると、幸兵衛さんは「こんなのが来たら、近所の娘と心中する」と追い返しちゃう。

――面倒くさい人だ……。

 でも、現代でも取り越し苦労が度を超していたり、おせっかいが過ぎたり、口やかましかったりして、他人に迷惑をかける人っていますよね。小言幸兵衛は、そういった人をカリカチュア(風刺)した話ですが、「面倒くさい人って江戸の頃からいたんだな」とも思わせてくれる。

 面倒くさい人との接し方、かわし方も教えてくれるんですね。人間関係に疲れたら「世の中にはこういう人もいるよなぁ…」と、他人と適度な距離感をとったほうがいいなと。自分の心がまいってしまう前に、感情を爆発させないようにする「心のブレーキ」に、落語はなってくれると思います。

――その一方で、自分が周りに迷惑をかけたりしてないか、思い出させてくれる話もありますね。

 NHKの朝の連続テレビ小説の題名にもなった「ちりとてちん」という話がそうかもしれませんね。知ったかぶりばかりする若旦那が出てきますが、周囲はそれを逆手にとって、腐った豆腐を「『ちりとてちん』という珍味です」と食わせてしまう。

 でも、私たちも知ったかぶりをして、顰蹙をかったりしますよね。「小言幸兵衛」もそうです。自分もしくじるし、相手もしくじることがある。人間誰でも失敗する可能性がある。無用な諍いや、争いをしないような気持ちを教えてくれる。

 それこそ、落語が教えてくれる「本当の教養」だと思います。

音声はこちら

 音声でもインタビューをお聴き頂けます。まるで寄席のような?談慶師匠の軽妙なトークをお楽しみください!(全2回)