今回の「旅是好日」を書き始めたのは、締め切りの2日前である。ひと月に1本書かせていただいているこのエッセイも、毎回、自分なりに色々と考えているが、校了を迎えるという充実感は連載でないと味わえないもので、とても感謝している。
1カ月というスパンは長いもので、そこからライブやリハーサル、曲づくりに没頭していると自身のモードもガラリと変わってゆく。すると、あっという間に次の原稿の締め切りがきて、1カ月とはこうも早いものなのかと追われるように書いている。なぜもっと早く本を読み原稿を書き始めなかったのか、と泣き言をいっている自分をよそに、焦っても焦っても時間は戻ることはなく、締め切りの時は刻一刻と迫ってくる。
今年のお正月はゆっくりできたし、久しぶりに温泉旅行にも出かけた。その間にいくらでも書くことはできたのに、始業式手前で取りかかる冬休みの宿題よろしく、締め切りに迫られないとやらない性格は学生時代から何の進歩もなく、清々しさすら感じる。
「時間は存在しない」と言われても
現に、目の前の未来にしっかりと締め切りは設定されており、前回の校了から時間の矢は真っ直ぐそこに向かって進んでいる。時間は過去から未来に向かって流れ、決してその逆はない。そして我々は常に現在に生きている。しかしカルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』を読むと、「時間」についての新しい視点に驚き、「時間」について我々の先入観がいかに強固であるかを思い知り、その不思議さや謎に大きく揺さぶられ、想像力を超えた時間という概念の前で立ち尽くすこととなる。
誰にとっても共通の「時間」が我々の外側に流れているのだろうか。それとも「時間」とはあくまでパーソナルなもので、人の心にしか存在し得ないものなのだろうか。
本書は「時間」について理論物理学者カルロ・ロヴェッリ氏により、科学の視点から客観的事実を積み上げて迫り、やがて人間の感じている時間についての考察に発展してゆく。物理・化学で証明された解には説得力がある。我々の生活も科学の恩恵を受けているし、さらには我々のコスモロジーにも大きな影響を与えているが、この本には難しい方程式は出てこない。唯一出てくるのは熱力学の第二法則「ΔS≧0」のみだ。
式の意味するところは、熱は熱い物体から冷たい物体にしか移らず、決して逆は生じないというものだ。熱の式がなぜ時間と関係があるかというと、この式は基本的な物理式の中で唯一、過去と未来を認識しているからであるとロヴェッリ氏は言う。世界は低いエントロピー(乱雑さ)から高いエントロピーへと移り続け、その逆は起きない。コップの中の真水はエントロピーの低い状態で、そこにインクを垂らすと無秩序に撹拌されエントロピーの高い状態になることを想像していただくと分かりやすい。
しかし、人間の能力では原子や素量子が動き回っているようなミクロな世界をありのままに認識することはできない。我々のミクロなレベルでの視点はぼやけているのだ。ゆえに我々は世界を曖昧にしか認識できていない。そして文章はこう続く。もしミクロなレベルでの正確な状態をすべて考慮に入れることができたなら、時間の流れの特徴とされる性質は全て消えてしまい、過去と未来の違いも消えてしまうのだと。
物理的な視点を経て、自分の内面にある「時間」へと考察は続いてゆく。アウグスティヌス、アリストテレス、カント、フッサール、ハイデッガー――歴史上の知の巨人たちの時間に対する解釈には、哲学的な驚きと感動がある。少し難しいが文中のハイデッガーの言葉を紹介したいと思う。
「時間はそこに人間存在がある限りにおいて時間化する」
この言葉は、カントがいう「アプリオリ(自明)」という概念にも象徴されているが、人間は世界を把握する術として、空間と時間を感知する能力をアプリオリ的に備えている。だがこの宇宙の構成要素は空間と時間のみだという保証はどこにもなく、時空を超えた次元が存在し、それ以外の物理系があるならば、人間が時空をもとに観測し秩序化できる地平の限界はどこかで来てしまうのかもしれない。しかし時間と空間を感知できるからこそ、我々はこの恐ろしいくらいに広大な宇宙の中にそれぞれの現在位置を見出し、お互いを感じあえるのだ。
校了を迎え、1カ月が終わり、また1カ月が始まる。ここに今の自分の居場所がある。