1. HOME
  2. コラム
  3. ひもとく
  4. 瀬戸内寂聴の文学 自身の軛、書いて解き放った 作家・川上弘美

瀬戸内寂聴の文学 自身の軛、書いて解き放った 作家・川上弘美

1973年11月14日、岩手県平泉町の中尊寺での得度式で出家し、瀬戸内寂聴となった

 瀬戸内さんの三冊。選ぶのがたいへんに難しいが、人と人との関係を、その一生をかけて描いてきた中から、次の三冊を選んでみたい。

 初期の作品の中でことに輝きを放っているのは『夏の終(おわ)り』、瀬戸内さんが四十代のはじめに上梓(じょうし)した短編集である。妻帯者である年上の小説家「慎吾」との半同棲(どうせい)の生活を続けていた「知子」のもとに、ある日あらわれた年下の男「凉太」。彼は、知子が元の夫のもとから出奔する原因となった、昔の恋の相手だった。『夏の終り』には、この三人の関係を描いた短篇(たんぺん)が四つおさめられている。三人の関係を、わかりやすい俗な枠に押しこむのは簡単だ。けれど読んでゆくうちに、二人の男の間をさまよう知子の、存在そのもののきらめきが、たまらなく魅力的に感じられてくる。理解できるはずのない彼女の心理が、「なるほど」と首肯される心もちにもなってくる。

己を客観視する

 いったいそれはなぜなのだろう。「往時の自分の状況を書いた」と、瀬戸内さんはこれらの小説について述べる。けれどそれは、小説家としてはかなり韜晦(とうかい)した言葉のはずだ。「そのまま」を書く小説家など、いない。たとえ私小説だと銘打っていても、事実をそのまま書いたものなど、読むに堪えるものになるはずがない。そのままのようにみえるものを書くには、高い技術と自己を客観視する冷徹、そして決して自己憐憫(れんびん)に走らない忍耐が必要なのである。

 なぜ自分は夫のもとを去ったのか。なぜ自分は行く先のない関係の男とずっと係(かかわ)っているのか。なぜ自分は過去の男とあえて再び繫(つな)がるのか。そのことを、これらの短篇を書くことによって、瀬戸内さんはわかろうとしたはずだ。けれどむろん、小説を書くだけですべてのことがわかるわけがない。ただ、書くことによって自身の軛(くびき)から解き放たれ、男と女、人と人の係りの芯にある普遍的な何かを捕まえることは、できたのではないか。

 『夏の終り』から六年後に上梓した短篇集『蘭(らん)を焼く』には、『夏の終り』の男たちはもう登場しない。文体はがらりと変化し、私小説的な色合いは薄くなり、けれどやはりそこには濃密な男と女の関係が描かれる。『夏の終り』の、省略と飛躍から生まれる躍動的な文体が、持ち重りするくらい懇切な描写になりかわり、小説全体の密度が胸苦しいくらいに高くなっている。この時期の短篇に、当時瀬戸内さんと係りの深かった井上光晴氏が赤を入れていた、と聞いたこともあるが、多少の添削をするくらいでこの変化がなされうるものではないことは明らかだ。瀬戸内さん自身がこの文体を創出したのである。反対に言えば、この文体でなければ表現できない「関係」を、瀬戸内さんは書きたかったに違いない。

融通無碍の境地

 『場所』は先の二冊から三十有余年後、瀬戸内さん七十代の連作短編集である。文体はむしろ『夏の終り』に近いが、さらに透明感を増している。思いの深い場所を訪ね、現在の上に過去を幻視する。『夏の終り』の頃住んだ場所が、『蘭を焼く』当時の恋人との逢瀬(おうせ)の場所が、父母の生地が、自身の育った場所が、静かな筆致で描写されると、その場所が立体的に目の前にあらわれる心地となる。融通無碍(むげ)とは、このような境地を言うのだろう。ここにあるのは、人と人の関係にとどまらない、人と場所の、時間の、そして世界全体との関係なのである。もし自分なら、これが書けてしまった後にはもう何も書かないかもしれないと、読むたびに思う。けれどそれからの約十年間で、『釈迦(しゃか)』(全集第十八巻所収)『秘花』(新潮社・品切れ、電子版あり)『爛(らん)』(新潮社・1650円)という長篇を、瀬戸内さんは次々に上梓するのだ。小説を書かんとする瀬戸内さんの欲望の、なんと深いことか。苦しかったと思う。そしてまた、誰にもはかれないほど深い歓(よろこ)びに満ちていただろう、とも。=朝日新聞2021年12月18日掲載