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「現代生活独習ノート」書評 気怠い日常に読者も溶ける快楽

評者: 金原ひとみ / 朝⽇新聞掲載:2022年01月15日
現代生活独習ノート 著者:津村 記久子 出版社:講談社 ジャンル:小説

ISBN: 9784065260371
発売⽇: 2021/11/19
サイズ: 20cm/259p

「現代生活独習ノート」 [著]津村記久子

 入社希望の学生のSNSをチェックする仕事を押し付けられる女性。「執事」という名の目覚まし兼ティーサーバーをなかなかポチれない女性。クラッカーやコーンスープなどの粗食をSNSに投稿する女性。ひょんなことから別クラスタの同級生と架空の国の設定を作っていく中学生。
 八篇(へん)の短編の主人公は皆それぞれの日常に埋没していて、耐え難い悪党や驚くような事件や裏切り、人生の大きなチャンスや転換なども一切訪れない。
 小説とはある程度、見せるべき面を考慮して作られている。登場人物たちの人となりが分かりやすいように、読者が理解しやすいように、テーマを効果的に見せられるように、小説家は切り取るべきところを見極める。もちろんどう切り取るかは人それぞれで、その比重で独自の味が出るのだが、本書の著者は切り取らない。切り取るのではなく、滲(にじ)み出てきたものをスポンジで吸い取るかのような書き方をしているのだ。
 主人公たちの気怠(けだる)い日常に最初は戸惑うものの、ワクワクするとかハラハラするとか、こうなってとかああなって!などの希求が一切ない物語に、読むうち自分自身も溶け出すような快楽が生じてくる。本書の主人公たちは総じて、ワクワクハラハラしたくないし、どうにもこうにも何にもなりたくない人間のため当然と言えば当然だ。
 しかし靴下の毛玉を取っている時の安堵(あんど)感、コンビニで食べたいものが見つからない時の虚無感、何でこの人こんなんなんだろうという家族への苛立(いらだ)ち、いい人だけどウザい上司への愛憎、私たちのちょっとずつ地獄で、ちょっとずつ心地のよい空間が、ここにはじんわりと克明に描かれている。本書は冒険に出たり、悪党と戦ったり、自己実現に奔走したり、そういう体験、あるいは体験推奨にうんざりしている私たちの、もう何もしたくないという切実な本音に寄り添ってくれる稀有(けう)な小説なのだ。
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つむら・きくこ 1978年生まれ。作家。「ポトスライムの舟」で芥川賞。『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞受賞。