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砥上裕將さんの読んできた本たち 短い言葉できれいな情景を見せてくれる漢詩が好きだった

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明るい小説が好き

――いちばん古い読書の記憶を教えてください。

 2、3歳の頃、絵本を読み聞かせてもらったのを憶えています。家に「ノンタン」のシリーズが何冊かありましたし、いわさきちひろさんも絵本があったり家に絵が飾ってあったりして、あの水彩画のタッチをよく憶えていますね。いもとようこさんの『ぽちのえにっき』という絵本もお気に入りで、よくせがんで読んでもらっていたようです。

 あとはものの名前がたくさん載った、図鑑のような本。自動車の名前がたくさん載っている本が好きでした。

 僕は話し始めるのがすごく早くて、生まれて半年くらいで単語を言うようになったそうです。たぶん、耳がよかったんでしょうね。字を読み始めるのはすごく遅かったんです。小学校に入ってもあまり読めていなかったと思います

――では、小学校に入ってからはどんな本を。

 相変わらず図鑑が好きで、昆虫図鑑や星座の図鑑を眺めていました。北斗七星の話など、星座にまつわる神話が好きでした。読むのが遅かったので、低学年の頃に「ズッコケ三人組」を読み終えた時は誇らしい気持ちになりました。『ズッコケ山賊修行中』と『謎のズッコケ海賊島』などは自分でも持っていました。でも特に読書が好きな子ではなく、活発に外で遊ぶような子でした。

――外でどんな遊びをしていたんですか。

 団地や集合住宅の多い地域に住んでいたので、建物の壁を登ったり塀を登ったり。マンションとマンションの壁と壁の間を飛んだりしていました。市営の団地に住んでいる友達は、鍵を忘れたといって5階の自分の家まで壁をつたって上がったりしていました。

――え、パルクールみたいじゃないですか。

 パルクールという言葉は後で知りました(笑)。そういうことができる友達が何人もいたんですよ

――ごきょうだいはいましたか。

 妹がいます。僕とは逆で、妹は読み書きできるようになるのが早くて、喋るのが遅かったですね。大量に漫画を持っていてすごく大事にしていて、僕がこっそり借りて読んでいると怒られました。持っていたのは『シャーマンキング』とか、「シャンプ」系の漫画が多かったように思います。

 漫画は、手塚治虫先生も好きでした。小学生の頃、親戚同士が集まる時に子どもはやることがないので、近くの本屋で漫画を2、3冊買ってもらってじーっと読んでいたんです。その時に『ブラック・ジャック』を買ってもらっていました。『ブッタ』も学校にありましたし、『どろろ』は友達から借りました。「ジャンプ」系漫画の全盛期だったのに、自分のまわりでは手塚治虫先生が流行っていたんです。

 うちの両親は本を読まないタイプなんですが、家に1冊だけ小説があったんです。それが夏目漱石の『こころ』でした。どちらかが学生時代に授業か講義で使ったんだと思うんですが、表紙もボロボロになっていました。それで夏目漱石という作家がいると知っていて、高学年の時に教科書で『坊っちゃん』を知って、全部読んだんです。やんちゃな感じや無鉄砲なところが自分に重なるように思えて、すごく好きでした。明るく楽しい小説があるということにものすごくインパクトを感じました。小説っていいなと思った最初の体験だったと思います

――学校の国語の授業は好きでしたか。

 好きでした。僕は算数などは駄目で、国語と習字と、図画工作が得意だったんです。親が、字はきれいに書けなければいけないという考えだったようで、習字は4歳から習いに通っていました。でも、妹はばんばん上手くなるのに、僕はそこまで上達しなくて。人の言うことを聞かずに好き勝手にやりたがるので、一通り書けるようにはなるんですが、極端に上手くはならなかったんです。でも習字は好きでした

――砥上さんは作家であり水墨画家でもあるので、その頃から筆を使っていたんだなあ、と。絵を描くのも当時から好きでしたか。

 たいして上手くないけれど好きでした。授業で絵を描く時はこだわって、何度も画用紙をもらいにいって何枚も描いていました。

 エネルギーをぶつける対象があると向かっていくタイプだったんです。絵も、きちんと構図を考えてじっくり描くのではなく、どんどん描くタイプでした。今思い出したんですが、一回、割りばしに墨をつけてペンのように使って、すごく緻密なゴミの山みたいなものを描いたことがあります。それは何かの賞をとりました

――その頃、将来は何になりたかったんでしょう。

 鍼灸師や指圧師になりたかった。親に肩揉みをやらされていたんですが、続けさせるために「上手い」って褒めるんですよ。俺は指圧が上手いんだ、これで食べていけるんじゃないかと思いました(笑)。今思えば、いいように使われていたわけですね。親が鍼治療にも行っていたので、それもなにか神秘的に感じて憧れていました。どこか東洋文化に惹かれていたところがあります

――映画などは好きでしたか。

 母親が映画好きで、よくビデオを借りてきていたんです。それで「フォレスト・ガンプ」を見て、ぼろぼろ泣いた記憶があります。主人公の設定とか、自然描写とか、戦争の悲惨さとか、ダン中尉との友情とか...すごくよかったんです。それでもっと知りたいと思って、ウィンストン・グルームの原作を買ってもらいました。その後、海外文学をわりと読むようになるんですけれど、その入り口になったような気がします。

臨書集や漢詩

――中学生時代の読書生活は

 漫画版の『風の谷のナウシカ』なんかを読んでいました。小学生時代に映画を観てあまり意味がわからなかったんですが、誰かが漫画版を持っていたのでみんなで回し読みしたら、これは面白かった。「古畑任三郎」のドラマも小学生の頃観ていて、中学生になってから小説版もあると知って読みました。

 それと、中学2年生だったか、教科書に『こころ』の一部が載っていたんです。そういえば家にあったなと思って読みました。人間の内面をあそこまで細かく掘り下げていく小説にそれまで出合っていなかったので、そこに感動した憶えがあります。先生と呼ぶ人との関係や、暗い過去を背負って生きている様子に惹かれたんですが、今思えば、自分も後になって『線は、僕を描く』でそうしたものを書いているんですよね。

 あとは、太宰治の「走れメロス」も教科書に載っていて、すごく面白くて、そこから太宰治を何冊か読みました。『人間失格』は主人公に共感はしなかったけれど、近距離でボディブローを入れられるような感覚で、そこがすごく好みでした。太宰でいうなら『きりぎりす』が好きですね。画家の妻の独白で、夫が急に売れ始めるんですよね。そこからすれ違っていく人間の心理を面白く読みました

――部活は何かやっていましたか。

 部活はやっていなかったんですが、近所で格闘技を習っていました。空手道場のはずなんですけれど、総合格闘技みたいなことを教えていたんです。振り返ってもよく分からないですね(笑)。だから腕っぷしは強くて、不良たちに近寄られることもなかったです。

 当時、僕が住んでいた地域は失業中の労働者の世帯が多くて、そのストレスが全部下に向かっていたんです。家庭内暴力を受けている子どもたちも周りにいました。不良も多くて、学校も、窓ガラスが割れたり、廊下を自転車が通ったり、授業が成立してなかった。みんな、午後の授業なんて出ないで帰っちゃうんです。先生も止めなかった。僕も授業に出ずに家に帰って本や漫画を読んでいました。

 でも、暴力振るわれるから帰れない奴もいるんです。僕の家に集まってみんなでゲームをやったりもしました。僕らはファミコン、スーパーファミコン、プレイステーションが揃ったゲーム世代なんです。あとは、逃げ場としての本屋さんがありました。家に帰れない奴が雑誌のコーナーで3、4時間くらい、立ち読みじゃなくて座り読みしてたりしましたね。それでも追い出されず、温かく見守ってもらっていました。今もその本屋さんにはすごく感謝の念があるし、時々行っています。店長は替わったんですが、作家になったと言ったらすごく喜んでくれました

――高校時代はいかがでしたか。

 公立の受験に失敗して私立の学校に行きました。授業さぼっていたんですからそりゃ受験も失敗しますよね。そうしたらその学校では、家にお手伝いさんがいたりとか、やたらお金持ちの子がいるんでびっくりしました。授業が成立していることにも驚きましたね。先生もちゃんと教えてくれるし、みんな静かに聞いているし。でも、僕は馴染めなくて、かなり孤独を感じていました。そんな時に、校舎の建て替え工事をしている場所を通りかかったら、「おーい」って声をかけてくる奴がいて。中学時代の同級生が作業服きて基礎工事の作業をしていたりする。中学を出て働いている奴らを見ていると、みんな立派なお父さんになって、まわりの人のために働いていて、たくましいなと思っていました

――中学よりも、高校のほうが馴染めなかったんですか。

 自分が感じていることと人が言っていることがすごく違うと感じるんです。大人になってもそうですね。「普通はこうするよね」「普通はこう感じるよね」と言われても良く分からない。「どうでもいいよね」みたいな反応をしてしまう。大学に入ってから、そいう反応はよくないなと分かってくるんですけれど。

 高校では書道部に入ったんですが、先生が「こいつは学校には馴染まないが悪い奴じゃないし、書道はやる気があるようだ」と思ったのか、匿ってくれたというか。書道部の準備室にいさせてくれたんです。そこでやりたい放題やっていました。臨書集や美術書をずっと見たり、ひたすら字を書かせてもらったり。定価8万とか10万円の筆も相当使わせてもらっていました。ひとつのことに極端に集中するところがあるので、この一文字をどう書くかとか、この線をどう引くか、延々に考えていました。思えば、そうした時間は後に水墨画をやる時に役立ちました。基礎みたいなものですから。

 でも、残念なことにやっぱり上手くならなかったんです。一般のなかでは上手いけれど、書道の専門高校に行っている生徒たちは相当レベルが高くて、そういう奴らには勝てないという。書道って音楽と同じで、残酷なくらい才能が関わってくるんです。努力すればどうにかなるくらいにはなるけれど、それ以上はいかない。

――その頃、どんな本を読んでいましたか。

 書道部の先生が大学の文学部書道学科出身の人で、漢文の素養があったんです。書道を文学だととらえるようなところがありました。その影響だと思うんですが、漢詩が好きでした。今もNHKテキストの『漢詩を読む』のシリーズを毎日ひとつずつ読んだりしています。

 漢詩はまず、長くないのがいいですね(笑)。短い言葉でとてもきれいな情景を見せてくれる。それに、日本語に変換した時にものすごく美しい表現になるんです。中国の思想には老成の美学があって、老いていくのはめでたいことだというところに温かさや朗らかさを感じました。悲嘆にくれるような内容の漢詩もありますが、やはり記憶に残っているのは、酒を飲んで楽しかったとか、人と笑い合ったといった内容のものですね。漢詩に限らず、基本的に明るくて前向きなメッセージを持つものを好む傾向があるんです

――「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」みたいな内容の詩ということですね。具体的に、好きな漢詩といいますと。 

 于武陵(うぶりょう)の「勧酒」ですね。有名な詩です。

君に勧む金屈卮(きんつくし)
満酌辞するを須(もち)いず
花発(ひら)けば風雨多し
人生別離たる

 これは井伏鱒二の訳が有名で、

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 これがすごく好きなんです。寺山修司もこの訳を使ってますよね。

つばくらからす鵙(もず)つぐみ
鳥も天涯家なき子
草むら遠く燈をともす
ひとの幸せ過ぎゆきて
さよならだけが人生だ

 とか。こういう関連したものを見つけては、いいなあと思って一人でニタニタしています(笑)。

水墨画をはじめる

――大学に進学してからは。

 表現するものが文字に限定されるのが息苦しくなっていて、もっと自由にいろんなものを感じたり考えたりしたくなりました。それで絵画に魅力を感じて、図書館に行っては手あたり次第、美術書や画集を見始めました。とりあえず全部開いてみた結果、自分はミーハーなものが好きだと気づきました(笑)。印象派が好きだな、とか。いちばん好きなのはウィリアム・ターナーですね。日本美術の話は長くなるので、だいたい全部好きということで(笑)。

 あとは、昭和の三筆といわれているような、自分が手を出せないような人たちの指南書や技術書も見ていました。戦後に流行ったのでいろんな雑誌社がいっぱい臨書を出していましたし。技術書や理論書に関しては書道に限らず、世阿弥の『風姿花伝』や、宮本武蔵の『五輪書』なんかも読みました。変わったところでは『歎異抄』。親鸞の語りを弟子が書きとるスタイルですが、あれも結構好きですね。

 柔らかい言葉も好きで、『寺山修司少女詩集』なんかを読みながら、自分にもセンチメンタルな部分があるんだなと思ったり(笑)

――砥上さんは大学時代に水墨画と出合ったそうですね。

 中学校の頃に一回やったことはあるんですが、そんなに記憶に残らなかったんです。21歳くらいの頃、学校で水墨画の揮毫会があり、すごく偉い先生が来校したので見に行ったんです。書道と水墨画は隣接分野だし、何を描いているのかちょこっと分析できる部分があって。それで質問をしに行ったら「お前は面白い」と声をかけられ、そこからはスーツを着てパネルを運んだりホワイトボードを用意したり、いいように使われるようになりました(笑)。初心者を集めた体験教室なんかの時、先生一人では全員いっぺんに見られないからお弟子さんが手伝うんですが、先生が僕にも「お前、教えてこい」って言うんです。一回も習っていないのに。それで、僕も水墨画を描いてみたいとは思っていたので、道具を一式借りて必死で練習しました。先生は何も教えてくれないから、揮毫会などで書いている様子をずっと見て研究しましたね。『線は、僕を描く』の青山君と湖山先生のような優しい関係ではなかったです

――砥上さんのデビュー作『線は、僕を描く』は、心に傷を抱える大学生の青山君が水墨画の巨匠、湖山先生に気に入られて弟子入りし、成長していく。青山君の大学の友人として古前君という社交的な青年が登場しますが、砥上さんは以前、学生時代の自分は古前君みたいだった、と話してましたよね。

 そうです、古前君みたいでした。いろんな大学に行って、いろんな人に声をかけて、みんなを引き連れて水墨画をやろうとしていましたから。20校くらいは集まったのかな。それで展覧会をやったりしていました

――高校時代は周囲に馴染めなかったのに、いきなりそんなに変わったのですか。

 愛想よくすることはできますし(笑)。それに、大学が溶け込める雰囲気だったんです。留学生もたくさんいる多国籍状態で、友人もわけのわからない奴が多くて。それがよかったですね

――大学時代に一度、小説を書かれたそうですね。

 高校時代の終わり頃から、小説って紙とペンがあればできるなと思い始め、大学に入ってすぐに書いてみました。ミーハーな気持ちもありましたね。綿矢りささんがデビューして、同世代の人が小説を書いてこんなにお金をもらっているなんてすごいな、自分もそういうところにいけないか、という浅ましい考えがありました。

 でもなんせ集中力が続かないから長文が書けないんです。考えてみれば読んできた本も短いものが多かったんですよね。長時間集中できないし、じっとしていられないし、肌に合わないものはすごく止めてしまう。ドストエフスキーの『罪と罰』を読もうとしたけれど歯が立たなくて途中で止めましたし。その傾向が25歳くらいまで続きました

――その時、どういうものを書こうとしたのですか。

 ファンタジーっぽいものです。もともと夢とか幻想が好きなんです。荘子の「胡蝶の夢」のような話が好きで、自分でも書きたいなと思うけれどどうにもならなくて。

 『荘子』って、小話の寄せ集めで、そういうのを読んでいると幸せな気持ちになるんですよね。「胡蝶の夢」の他には、「庖丁解牛」が好きでした。庖丁という料理人が牛肉を斬る時、切ろうとするのでなく、切ってもらいたいと語りかけてくる方向に刃を入れている、というようなことを語るんです。自分も水墨画で線を引く時に、自分の意志ではなく、身体が勝手に動くほうに線を入れている感覚があったんです。

気になる小説内の自然描写

――卒業後はどうされたのですか。

 このままずっと先生のところにいるのではなく、一人でやってみたくなったんですよね。それで先生の名前は出さずに個展を開いていたら、若い水墨画家が珍しかったようで売れ始めたんです。

 絵師って流派というのがないんですよね。自由に描いていいんです。「琳派」だって実際に師弟関係があったというより、ある世代からある世代までの間で同じ傾向をもった人たちのことを後世の人がそう呼んだだけだし、「狩野派」も血脈の話ですし。絵師自身は一人一人が勝手にやっていて、たとえばオーケストラの中のバイオリン奏者というより、ギターでブルースやっている流れ者みたいだなと感じていて。道具も墨と紙があればなんとなかなるし、それで、自分でも一人でやってみたくなったんです。

 ちょびちょびアルバイトしながら、教室も開きました。いろんな生徒さんが入れ代わり立ち代わりしつつ、長年続けてくださる方もいて楽しくやっていました。毎日朝から晩まで絵を描いて好きなことをやっていればいい。すごく貧乏だったけれど、幸せでした。本当に成功したかったら東京に行っていろいろやらなきゃいけないんだろうけれど、それはどうしようかなと思ううちに何年も経って、それで自分でも満足していました

――本は読んでいましたか。

 暇なので、そこそこ読んでいました。図書館が近くにあったので、そこで相変わらず技芸書みたいなものも読んだし、小説も読んだし。その頃は伝記ものも多かったですね。マイルス・デイヴィスの自伝、チャップリンの自伝、ビル・エヴァンスの伝記...。

 その頃、ブコウスキーにもハマりました。最初は、自伝的小説が映画化された「酔いどれ詩人になるまえに」を観て、底辺感にシンパシーを感じたというか。そこから追いかけるようになりました。長篇の『パルプ』が好きでしたね。構成も何も考えてない書き方がよくて。

 日本の小説だと、森見登美彦先生です。学生時代に『夜は短し歩けよ乙女』を読んで笑えるしすごくいいなと思い、『四畳半神話大系』を読み......。最近の『四畳半タイムマシンブルース』に至るまで、新刊が出るたびに買っています。

 以前、本の装丁を描くグループ展に参加していたんですが、僕は森見先生の『【新釈】走れメロス』に収録された、坂口安吾の作品をアレンジした「桜の森の満開の下」の光景を描きました。ちょうど、桜の新たな描き方を開発したんですよね。それまでの、しだれ桜を描く既存の技術に満足していなかったんで、ぱっと遠くから見ても桜と分かる描きたかったんです

 その次のグループ展では、米澤穂信先生の『さよなら妖精』に出てくる、雨に濡れた紫陽花を描きました。それも、近距離から見た雨を描くという、方法論としては高度なことをやった新技でした。米澤先生もすごく好きで、とにかく文章が上手な人だなあと思っています。『犬はどこだ』、『ボトルネック』、『王とサーカス』......今年刊行された『黒牢城』も読んで、もう天才だなと思っています。

――小説を読んでいて、草木などの自然描写があると気になりますか。

 気になりますね。どんな植物だろう、どんなふうに咲いているんだろう、などと考えます。花が傾いているのか、うつむいているのか、上を向いているのか、こちらを見つめているのか、風に揺れているのか。そういうことが大事なんです

――さきほど25歳くらいまで長いものが苦手な傾向が続いたとおっしゃっていましたが、だんだん読む本の傾向は替わっていったんですか。

 25歳を越えたあたりから、短距離走じゃなくなってきたんです。長い小説を読むのが楽しくなってきました。自分は絵で食べていくんだと思ってからは、小説が素直に楽しめるようになりました。

 その頃に読んだのがポール・オースター。最初に『シティ・オブ・グラス』を読んだんです。ニューヨーク三部作では『幽霊たち』はあまりハマらなかったけれど、『鍵のかかった部屋』はすごく好きで何回も読み返しています。『ムーン・パレス』も好きだし、『幻影の書』は何年か前に引っ越した時に失くしたけれど買い直して、それから何回も読み返してはすごいな、人間ってこんなものを書けるんだな、と思います。ポール・オースターって、人間の境界線上でのアイデンティティの問題を何回も何回も書いていますが、同じことに何度も立ち向かっていくところが格好いいように思いますね。

 幻想的なものに惹かれるという点では、セルバンテスの『ドン・キホーテ』も好きでしたね。騎士道すらももはや幻想になっているのに、そこに全力で向かっていく人間が描かれている。その姿がいつも自分に響きます。

 チャンドラーを読んだのもこの頃ですね。何冊も読んだなかでやっぱり一番好きなのは『ロング・グッドバイ』というか、『長いお別れ』ですね。書き方がとにかく格好いいし、視点の使い方がすごく参考になる。一人称で限界までいろんなものを見るにはどうしたらいいか考えさせられます

――どちらの訳が好きですか。

 清水俊二訳の『長いお別れ』も村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』も好きです。交互に読んで訳を見比べて、こんなに違うんだと思ったこともありました。ただ、読み返す時は、読みやすい村上訳を選びがちですね。

 あとはヘミングウェイの『老人と海』。おじいさんと子どもというモチーフも好きだし、自然との関わり合い方にぐっときます。僕、海が好きなんですね。現実の海も好きだし、文学で表される海も好きで、よく手に取っている気がします。

 そうそう、吉村昭先生の『漂流』。難破して無人島に流れ着く話なんですが、事実をもとにして書かれた小説で、これはすさまじかった。吉村先生の文章もすごく好きですね。自分とは違う、がつがつ鑿で叩いて精密に組み立てていくソリッドな文章にぐっときます。 それと、いきなり可愛らしいものになりますが、『星の王子さま』と『100万回生きたねこ』も好きです。『100万回生きたねこ』は大人になってから読んだんです。スシローの子どものコーナーに置いてあったんですよ(笑)。僕、猫が好きだし自分でも飼っているんですが、それで読んでみたら、めちゃくちゃ面白くて。毎回スシローに行くたびに僕が眺めているので、家族が買ってくれました(笑)。余談ですがうちのモンちゃんという猫が表紙に描かれている猫と似ているんです。

 小説家として大事にしている小説も挙げておいたほうがいいと思うんですが、これはカルロス・ルイス・サフォンの『風の影』から始まるシリーズですね。『風の影』はすごく影響を受けました。自分も、こういうものが一生のうち一度でも書けたらいいなと思って。物語そのものも面白いんですが、青年の心の変化の描写が素晴らしいんです。情景と文章とストーリーがばっちり重なっているし、想像力を膨らませる余地があるし、全然知らない国の知らない時代の話なのに、すごく引き寄せられます

――その後、漫画や映画など、小説以外で気に入ったものといえば。

 いっぱいあります。黒澤明の「用心棒」、「椿三十郎」、「夢」、チャップリンの「ライムライト」とか。みんなが好きなものがやっぱり僕も好きで、「ショーシャンクの空に」、「エリザベスタウン」、「ノッティングヒルの恋人」、アクションなら「ボーン・アイデンティティー」とか。これは原作であるロバート・ラドラムの『暗殺者』も読みました。マット・デイモンも好きなんですよ。だから「グッド・ウィル・ハンティング」も好きです。それと、やっぱりトム・ハンクスが好きなので「キャスト・アウェイ」とか「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」とか。監督ならクリストファー・ノーラン。「ダークナイト」がすごく好きです。

 テレビドラマだと「名探偵モンク」が好きです。主人公が異常なくらいの記憶力と推理力を持っているのに普通のことができないという。「メンタリスト」も人の心理を操るメンタリストが事件の捜査をする内容で、主人公の演技が好きです。

 漫画は『よつばと!』が好きです。ありのまま見るということのすごさ、素晴らしさがよく分かるから。『月刊少女野崎くん』は無骨な男の子の日常の話で、これも悪い人が出てこないんですよね。読んでいるとすごく幸せな気持ちになります。

 ゲームなら「メタルギアソリッド」とか「DEATH STRANDING」とか。小島秀夫監督が好きなんです。それと、「ゴースト・オブ・ツシマ」は外国の会社が日本美術を吸収しては衣装や景色に取り入れているんですよね。黒澤明監督をリスペクトして作っているのも良く分かります

デビューの経緯と新作

――大学生の頃以来、再び小説を書くようになったきっかけは。

 知人が「小説を書いてみようかな」と言い始めたんです。へえ、と思って聞いていたら、彼は僕が以前書いていたことを知っているので、「お前も暇だろ? お前も書け」と言うんです。それで書き始めたら面白かった。

 その友人が現代作家にハマっていて、いろいろ本を貸してくれたんです。そのなかで面白かったのが、阿部和重さんと伊坂幸太郎さんの『キャプテンサンダーボルト』。読んで、自分もこれくらいはちゃめちゃなものが書きたいなと思ったんです。それで書き始めたら、ちゃんと500枚くらい書けたんですよね。昔は短いものしか書けなかったのに、俺、変わったな、と思って。それで、エンターテインメントの賞に応募しました

――それがメフィスト賞だったんですね。

 そうです。その時書いたのは、喋る猫が闘う話だったんです。応募した後になってメフィスト賞がミステリ寄りの賞だと知り、絶対に無理だと思ってもう結果も気にもしていませんでした。展覧会の準備などもあって気にしている余裕もなかったし。

 そうしたら編集部から連絡があり、今回は駄目だったけれどもまた頑張ってみませんか、みたいなことを言われて。こういう機会もなかなかないだろうし、小説を書いている間楽しかったので、やってみる気になりました。

 でも2回目に書いたものも駄目でした。それでどうしようと思っていた時に、編集者から「水墨画でやりましょう」と言われたんです。水墨画に興味ある人なんてほとんどいないのになと思いながらも、ネタはいろいろありますし、それで書いたんです

――そうして書き上げた『線は、僕を描く』でメフィスト賞を受賞されたわけですね。

 あれが駄目だったら、たぶん小説の応募は止めていたと思います。自分のことだから何年も頑張れないので、もういいやと思っていたはずです

――これは青年の成長物語としても読ませるし、水墨画や芸術の奥深さや捉え方について言語化されているのが興味深かったです。

 僕はいつも、先生が言った言葉ひとつでも「あれはどういう意味だったんだろう」とすごく考えていたんです。ちょっとした一行を読んで、「どういうことなんだろう」と考えるし、自分の行動でも、「いらんこと言っちゃった、失敗しちゃった」と考えこんでしまうほう。そうして何回も同じことを考えるから、言葉に変わっていく部分があるのかなと思います。こう言われたら悲しいとか、こういう出来事があったらこう思うはず、といったことに対して、「本当にそうなの?」と疑っているところもある。それが自分と人との間に距離ができる理由なんでしょうけれど、いちいち言語化して考えようとするところは小説を書く際に役に立っているかもしれません。

 青年の成長物語という点では、『風の影』をはじめ、読んできたいろんなものが血肉になっていると感じます。そういえば、立花隆さんの『青春漂流』という、伝統芸能や芸術家をはじめいろんなお仕事の人と話した本があるんですが、あれはよく読むと物語仕立てになっていて。そうしたものが『線は、僕を描く』を書く時に役に立っていた気がします

――デビューしてからの読書に、何か変化はありましたか。

 読む時の視点が替わりました。人が思いつかないような比喩が書かれたものも好きですが、簡潔に書かれているものをすごいと感じるようになりました。こういうふうに簡潔にまとめて物語を進めていくと、読者が想像する余地が生まれるんだなって。

 自分は書きたいことを全部書いてしまうんです。気に入った場面は何ページも書こうとしてしまう。それを後から自分で削るんですけれど、編集者に渡すとさらに削ろうとされます。そういう経験があるので、簡潔に書かれているもののすごさが分かるようになりました。よく考えれば、自分がもともと好きで読んでいたのも短い話が多かったですし

――生活のリズムは。

 午前中にちょっとしたメモを作るなど小説に関することをすませ、お昼休憩をしてから、夕方からまた書く時もあれば、書かない時もあります。でも僕は集中力が続かないので、基本的に午前中が勝負です

――読書の時間は。

 資料読みは午前中にすませますが、楽しみとしての読書は午後、ドライブして海の近くの公園などに行って、そこの駐車場に停めて車の中で読んだりします。『7.5グラムの奇跡』も、車の中で書いていた時もありました。コロナ禍で喫茶店に行けなくなって、でもずっと家の中にいるのも鬱々としてくるので車で移動して散歩するようになったんです。その時に本も読みたくなって、習慣になりました。お気に入りの場所がいくつもあります

――デビュー作『線は、僕を描く』が本屋大賞にもノミネートされ話題になりましたよね。そして刊行された第二作の『7.5グラムの奇跡』は、新人視能訓練士の青年が主人公。この職業を選んだのはどうしてですか。

 『線は、僕を描く』の青山君は、ものを見ることに関して天才的な青年なんです。そうした天才的な能力を持たずに、前向きに一生懸命働いている人たちの話が書きたいと思いました。不器用な人たちが、自分はこれをやって生きていっていいんだって思える話が書きたかった。それで、一般的に社会に出て仕事をしている人ということで、この職業にしました。

 妹が視能訓練士なんですよ。それに、監修してくれた眼科医の東淳一郎先生は飲み仲間で、以前からいろいろ話を聞いていたんです。彼らはたんたんと検査しているけれど、その裏にはいろんな技術もあるし、いろんな思いがある。患者さんの視力が下がったり視野が欠けたりしたら落ち込むし、ちゃんと目薬をさしてほしいと真剣に思っていたりする。眼科医療に携わる人たちにも感情があるけれど、患者には感情を悟らせないようにしながら診察している。彼らの感情って永遠に語られることがないかもしれない、ならば物語になるんじゃないか、と考えました

――視能訓練士という職業や、眼科のいろんな検査方法も知らないことが多くて面白かったです。

 妹や東先生にいろいろ取材しながら進めていったんですが、あまりに初歩的な質問をするのは失礼なので、ある程度は自分で分かるように最初に勉強しました。検査器具や検査の基準がいっぱいあって、それがなかなかやっかいで。半年は勉強のために時間を使いました。読んだ方から「ちゃんと眼科に行こうと思った」「眼科の人たちを温かい目で見るようになった」といった感想を聞くと、本当に嬉しいです

――今後はどんなことを題材にする予定ですか。

 興味の対象範囲がマニアックなところにあるので、そうしたものを書くんでしょうね。水墨画の話もまだまだネタはありますし。ゆっくり進めていきます

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