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手を重ね、互いの体温感じ合えば 青来有一

イラスト・竹田明日香

眼に見えぬ人間関係の壁 解かす力

 コロナウイルス感染者数が急激に減り、まだオミクロン株のニュースが流れる前の初冬の一日のことでした。グループホームで暮らしている母を、病院の定期検査の後、久しぶりに昼食に連れていくことになりました。施設の外で食事をともにするのは、コロナ禍前の一昨年のお正月にわが家に連れてきて以来になります。

 母は91歳。認知症で5分前のことも忘れることが多くなり、口が達者で手ごわいケンカ相手でもあった母の、往年の勢いを知っている息子としては、弱々しくなった母に時の流れの無常を感じないではいられません。

 病院での検査が終わり、ロビーで医師の診断を待つあいだ、母は白いまつげの目をしばたかせあたりをうかがい、ちょっと心細そうにしていました。「どうしたの?」と問うと手が冷たいと答えるので、なにげなく手を重ねたら「わあっ、温(ぬ)っかね」としょぼついた眼をふいに輝かせ、息子の手をカイロのように両手でぎゅっとにぎりしめたのでした。

 黒いシミが手の甲に浮きだし、骨と皮だけになった母の手にもう片方の手を思わず重ねてみたら、確かに冷え性の母の手は表も裏も冷たく、手足が火照る息子には薄氷(うすごおり)のように感じられるのでした。「あんた、温っかね」と笑う母にうなずきながら、前に母とこうして手を握りあったのはいつだったのか、思い返していました。母の足取りが危うくなり、手をとってからだを支えることはありますが、互いに両手をひしっとにぎり合った記憶は長くありません。

    ◇

 小学校の低学年の頃はともかく、自意識がめざめる10代になると、親もふくめ世の中との距離の保ちかたを身につけ、親子でもベタベタと手を握り合うなんてなくなってきます。それがソーシャルディスタンスなのでしょう。私たちは眼に見えない壁を持ち歩いているのかもしれません。人間関係もその透明な壁がじゃまをして時にわだかまり、もつれもします。

 そんなときには過剰な贈与やことばや気配りなどを重ねますが、あれこれ策を巡らせなくてもすなおに互いの手を握り合ったらいいのかもしれません。人間の関係なんて本来、限りなくシンプルでピュアであって、手を取り合って互いの体温の差を認め合うことができたら、フリーズした関係もリセットできるのではないでしょうか。コロナ禍でどうしたら他人と触れあわないでいられるか心を砕いてきましたが、人と人が出会ったなら、まず握手をするというのは理にかなっているのでしょう。

    ◇

 診察で特に問題もなく、山の中腹にある港が一望できる和風のレストランを訪ねました。以前、母を連れて利用していた高齢者施設にあるレストランは長びくコロナ禍のために閉まり、トイレなどバリアフリーや、昼食時の店の混雑などを考えるとほとんどの店は利用しづらく、結局、ホスピタリティーもしっかりしているホテルに併設されたその店を選んだのでした。

 店では車いすを準備して迎えてくださり、本来1時間程度で終わるはずの料理も、母の様子を見ながら2時間かけて提供してくれました。一品一品を揚げたてのてんぷらに母は大喜びでした。エビは尻尾まで食べようとし、カボチャは甘いと歓声を上げ、レンコンもさくさく食べました。山の斜面にびっしり家々が立ち並んだ長崎の街と港を一望できる場所は、ピクニックのような非日常の気分にしてくれるので母も気分は高まり、わが家のお寺があのあたりなどと教えると、昔のこともいくつか語ってくれました。

 食事を終え、給仕をしてくれた女性が「おなか一杯になられましたか」と優しく声をかけてくれました。母がとっさに「おなか二杯になりました」と答えたとき、ぱっと閃(ひらめ)くといった機転を働かせていた往年の母の勢いが、一瞬、よみがえったようにも感じたのでした。=朝日新聞2022年1月10日掲載