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「きみの行く道」訳者・伊藤比呂美さんインタビュー 君の色で、ありのまま進んで・・・人生の門出に贈りたい絵本

文:石井広子

生きる知恵が詰まっている

――「おめでとう。今日という日は、きみのためにある」というエールから始まる絵本『きみの行く道』(河出書房新社)。一人の少年がもがきながらも突き進んでいく冒険の物語には、これから新しい門出を迎える人へ、ユーモアを交えた力強いメッセージが詰まっている。作者は「現代のマザーグース」と呼ばれる米国の絵本作家ドクター・スース。1990年に発表された本書はミリオンセラーとなり、2008年に日本でも出版された。翻訳を手がけたのは詩人・伊藤比呂美さんだ。

 原題は『Oh, the Places You'll Go!』。作者のドクター・スースは、日本ではそんなに知られていないと思いますが、アメリカではとても有名な絵本作家。実際、私がカリフォルニアに住んでいたとき、書店にはドクター・スースの絵本が常に並んでいたのを目にしていましたし、現地の子どもたちが必ず読む絵本として親しまれていました。またアメリカ人なら誰もが知る彼の代表作『The Cat in The Hat』(1957)は当時、娘たちにもよく読み聞かせていたんです。だから翻訳の話を依頼されたときは、「こんなに面白い絵本を、まさか自分が翻訳できるとは」とわくわくしましたね。

『きみの行く道』(河出書房新社)より

 ドクター・スースは、30年代後半から絵本を発表し始め、50年代には多くの本を出しています。この50年代は、アメリカでは絵本が必要な時期だったといえます。なぜかというと、戦後、男性が戦地から帰ってきて、それまで外で働いていた女性たちは家に戻れという風潮になっていたんです。そして子どもを産み、子育てのために絵本が必要になるという状況で、この時代にはいろいろな絵本が次々と出ていたんですね。

 中でも『きみの行く道』は、ドクター・スースが80歳を超えてからの作品です。きっと若い頃には書けなかったはず。長い人生を経てさまざま経験したからこそ書けた絵本だと思います。そこに描かれている生きる知恵が素晴らしい。私は長いこと人生相談を受けているので実感するのですが、生きるうえで大切なことがちゃんと詰まっているんですよ。

 例えば「人生ってのは つなわたりだってこと」。この作者の概観、考えがここにいっぱい染み出ているような気がします。そして、あえてその前後にナンセンスなユーモアを加えているんです。ボケて笑わせてから、本質を突くような感じですね。私も、ふと人生を振り返ったときに本当に綱渡りでしたから。「きみは98と3/4%成功しますよ」といったことも書かれていますが、じゃあ、あとの1と1/4%はどうなるんだ? あとちょびっと、保証してくれないわけですよね。そこは未知だっていうのは、それもまた人生なのだろうな。本当にうまいなと思いますね。

『きみの行く道』(河出書房新社)より

 私がとても好きなのが「ぶつかったり ひっかかったり てなことが、きみに起こらないともかぎらない」という場面です。主人公は風船が付いた気球のような乗り物で空高く飛んでいくのですが、木の枝にひっかかり、宙ぶらりんになってしまいます。そしてスランプに陥り、「待つところ」にたどりつく。また来るチャンスをじっと待つのです。「だいじょうぶ、きみならきっとそれができる」と励まされながら。読み手の気分を一度落として、また上げるという流れがいいですよね。

 その後に続くページでは「人ってのは、他人のことを見てないときもあるんです」と。敵は自分。自分と戦いのときもある。こういったことを指針として生きていったら、本当にしみじみその通りだなって思うときがくるはずです。そして「でも、きみは進む。雨や風にふかれても」と続いていく。この力強い励まし方に私は感動しました。

『きみの行く道』(河出書房新社)より

ジェンダー観をアップデート

――説得力のある内容はもちろん、ドクター・スースの絵本の特徴はリズミカルな言葉遊び。英語圏の人にとって、快感を覚えるような言葉の転がし方をしている。その原文を書いた作者の思いを表現するため、翻訳作業には推敲を重ねたという。

 特に英語で子どもたちに読み聞かせをすると、楽しそうに反応をします。英語で韻を踏んでいる形を日本語にどう翻訳すればいいか、よく考えました。例えば「fly a kite, Friday night」「Uncle Jake, a Better Break」などの英語のリズム、言葉と誠実に向き合うしかなかったですね。それでも『きみの行く道』は他の作品に比べたら言葉遊びは多くなく、おじいさんが子どもたちに語りかけるようなストレートな言葉で綴られています。しかも変に教訓的過ぎない。ナンセンスな言葉遊びで、ユーモアに満ちた表現なのです。日本語の文化に例えていうなら、谷川俊太郎の「かっぱ」のような言葉遊びと、まどみちおの「ぞうさん」の歌ののどかさと、松田道雄の権威的な詩風を足して3で割ったような感じでしょうか。

――一方で、疑問を感じたのはジェンダー観。現代のジェンダー意識を反映して、丁寧に訳した。

 「きみ」と訳した原文のyouというのが、明らかにboyなのです。それがわかるのが最後の場面。世界中の子どもたちに呼びかけて励ますために、名前が並んでいます。そこにある「モルデカイ・アリ・バン・アレン・オシェイ」というのは、ユダヤ系、アラブ系、オランダ系、アイルランド系を混ぜているようなフルネームです。もしこのような名前の子がいるとしたら男の子。だからここには「くん」を付けました。様々な文化背景にある子どもたちへという意味が含まれていると思いますね。

 一方、「バクスバウム、ビクスビイ、ブレイ」という苗字だけが並んだ箇所には、実は「さん」と「くん」の両方を入れて、女の子も潜り込ませる工夫をしました。ジェンダーを混ぜこぜにしたかったからです。ただ、今の時代であればもっとその先に行くべきです。「くん」も「さん」も関係ないかもしれません。

 実は翻訳が終わってからのことですが、あるパーティーでバクスバウムさんという人に出会いました。ドクター・スースの本の中で、相手の名前を知ったことを話したら、彼はなんとドクター・スースの知り合いだったのです。「きっと私の名前を作品の中で使ったのでしょう」と彼は話していました(笑)。

人生の答えを見つけるために

――伊藤さんは教えていた大学で、折に触れてこの絵本を学生に紹介したり、プレゼントしたりしたこともあった。自分では恥ずかしくて言えない人生の臭い話も、ドクター・スースなら代弁してくれるからだ。

 授業で朗読をしたところ、ある学生が絵本を気に入り、学内の生協に置いてほしいとお願いしてきてくれたこともありました。また「私の伝えたいことはここに詰まっているから、読んでおいてね」って学生に贈っていたんですけど、反応はなかなか返ってこなかったですね。変なのをくれたと思っているんじゃないかしら。でもその子たちが50歳ぐらいになったときに、ふとこの絵本を開いてみたら、悟る気がするの。それでは遅いかもしれませんが、それも人生だと思います。

『きみの行く道』(河出書房新社)より

 これは、人生に悩んだ人が、自分で答えを見つけるための絵本です。原題にある“the Places You'll Go”を直訳すれば、”今から行くところ”。そこではさまざまな苦難や喜びに出会うはずです。また、絵は淡いカラーがベースで、ピンクの周りに黄色があり、緑があり、青があり……、様々な色が組み合わされています。行け行け!ドンドンっていう感じではないでしょ。君は君なんだから、どんなことがあっても君の色で、ありのまま進んでいけばいいんだよという意味もあるような気がする。でもこんな絵本を親が寝る前に子どもに読んだら胡散臭いでしょ(笑)。悩む前にこんなこと言われても分からないと思いますし。ある程度、生きることに悩んでから手に取ると、この絵本の本当の良さがわかると思います。だから、小中高、大学の卒業式など、そんな門出にプレゼントするのがいいでしょうね。

 卒業式が一大イベントのアメリカでは、日本の成人式を大きくしたようなイメージで、みんなドレスアップします。そこで母親や親戚の人などから、子どもへの贈り物としてこの絵本がよく使われていました。そんな折々に詩が活かされるというのはいい文化だなあと思っています。