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石川九楊さん「俳句の臨界 河東碧梧桐一〇九句選」インタビュー 「らしさ」から遠く離れて

石川九楊さん

 河東碧梧桐は、五つの漢字とごつごつした響きの名で皆に知られる。だが《赤い椿(つばき)白い椿と落ちにけり》の一句を除けば、作品群や革新性、人物像は大方の人にとって漠としたものでしかなかっただろう。

 長年この俳人を追い、委細を明らかにしたのが著者による評伝『河東碧梧桐 表現の永続革命』だった。新たに成った本書は、碧梧桐の一句と短い解説を右に置き、その句を自らの筆で書として左に掲載した渾身(こんしん)の「完結編」である。「自分で作品にしてみなければ、碧梧桐論の仕上げにならなかった」。本書を見開けば、「表現の永続革命」で相通じる両者の共同作業の趣がある。

 著者の書は一見、俳句を書いたものとは思えない。書であることさえ判然としないかもしれない。「書らしさ」から遠く離れつつ、いかに真の書たり得るか、新たな表現になり得るか。本書からは、著者の常なる探究が碧梧桐の精神と共振するさまがうかがえて、2人の見た風景が、音が、においが伝わってくる。

 碧梧桐は五七五は芭蕉のものだと定型を壊し、「新傾向」からルビ付きの俳句にも及んだ。あまりの破格ゆえ、近現代の俳壇から「消しゴムでゴシゴシと消されていった」のだと著者は嘆く。自身、書を極めるべく目を閉じたり手に包帯を巻いたりして筆を持つ日々があった。だから碧梧桐の葛藤がよくわかる。俳句、書、小説、評論から日記まで多くを残した碧梧桐は「単なる俳人でなく、近代の大文学者ですよ」。

 碧梧桐論は完成を見た。まだ先がある。「近代では別格」の書を残した副島種臣である。碧梧桐と同様、「忘れられた」と頭につく人物なのは偶然だろうか。新たな次元をひらく者は異端であることを免れない。著者の挑戦もまたやまず、書を「採譜」して音楽にできないかと構想している。(文・写真 福田宏樹)=朝日新聞2022年3月19日掲載