- 恋愛の発酵と腐敗について
- 博士の長靴
- 夏の体温
新しい出会いも多い春。人づきあいにおいて、第一印象が大事であることは間違いないが、「思い込み」から苦い経験をしたことがある人も多いのではないだろうか。
二〇一八年に太宰治賞を受賞し小説家デビューした錦見映理子(にしきみえりこ)の『恋愛の発酵と腐敗について』は、大人の恋模様を描いた長編作だ。勤めていた商社を上司との不倫の果てに退職し、二十八歳の誕生日に拘(こだわ)りのカフェをオープンさせた万里絵。九年前に夫を亡くし、以来スーパーでレジ打ちのパートをしながら淡々とひとりで生きてきた四十三歳の早苗。そして万里絵の店の近くに新しくできたパン屋の店主・虎之介と、母親ほどの年齢の妻・伊都子。
ワケアリな登場人物たちが、いかにも巻き起こしそうな色恋沙汰を展開するのだが、そこからの個々の「気づき」が読ませる。理性と本能。執着と諦観(ていかん)。思い込んでいた物事が覆され一新され塗り替えられていく静かな興奮があり、読後には、存外な清々(すがすが)しさが残る。これは恋愛の話ではない。人生のドラマなのだと唸(うな)らされる。
気象学の研究にうちこむ博士の家族を一九五八年から六十余年にわたり、追っていく瀧羽(たきわ)麻子『博士の長靴』も、人には様々な顔があるのだと改めて思いを深くする物語だ。家政婦や家庭教師、隣人や仕事関係者などにより語られる藤巻家の人々は、時によって場所によって、まったく違う顔を見せる。それはごくあたり前のことであるのに、驚き、微笑(ほほえ)み、裏切られたような気持ちにもなる。誰も間違ったことは言っていない。ただ自分の見ているものだけが全てではないと思い知らされるのだ。最終話で博士がひ孫にあたる少年にかける言葉がいい。「自分の頭で考えたことは、あなたの財産です。残しておかないともったいない」。その難しさを、厭(いと)わない人間でありたいと思う。
瀬尾まいこ『夏の体温』は、小児科の入院病棟を舞台にした表題作と、転勤族の父をもつ中学一年生を主人公に据えた「花曇りの向こう」、そしてもう一話「魅惑の極悪人ファイル」と題された短編が収められている。
大学生作家の大原早智は、編集者から登場人物がいい人ばかりでリアリティがないと指摘され、学内で「ストブラ」と呼ばれる倉橋をモデルにしようと取材を始める。ストマックブラック=腹黒と揶揄(やゆ)される倉橋は、確かにルーズで常識に欠けていた。しかし、執拗(しつよう)に話を訊(き)くうちに、思いがけず早智の「見方」が変わっていく。
容姿、噂(うわさ)、肩書や立場を含めた人の「見かけ」をどう見るか。思い込んでしまう前に、自分の頭で考える時間を持ちたい。=朝日新聞2022年3月23日掲載