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「生皮」書評 その血と痛み 目を逸らさない

評者: トミヤマユキコ / 朝⽇新聞掲載:2022年05月28日
生皮 あるセクシャルハラスメントの光景 著者:井上 荒野 出版社:朝日新聞出版 ジャンル:小説

ISBN: 9784022518163
発売⽇: 2022/04/07
サイズ: 20cm/293p

「生皮」 [著]井上荒野

 動物病院で働く咲歩は、書くことが大好きだった。だから赤いノートに日記を書き、職場の壁新聞に小文を寄せ、カルチャーセンターの小説講座に通った。しかし、いまは何も書けない。7年前に起こった性被害によって彼女の生活はすっかり変わってしまった。
 相手は講師の月島である。出版社を辞め、小説講座を受け持った彼には、指導者の才能があった。だが、いいものを書く女性を見つけると、途端に見境がなくなる。小説への情熱に、性欲が混ざり込むらしい。彼によるとそれは不倫とは異なる「小説的関係」なのだという(なんだそれは)。
 物語は7年前の出来事を咲歩が週刊誌に告発するところからはじまる。当事者はもちろん、家族、講座の生徒たち、メディア関係者やSNSの動きが克明に描出されていく。痛感するのは、「事実」はひとつでも、人の数だけ解釈があり、それが各々(おのおの)の信じる「真実」になっているということ。被害者を叩(たた)き、加害者を擁護する者にも真実がある。そのことが圧倒的なリアリティーをもって迫ってくる。私達(たち)はたったひとつの事実からこれほどバラバラに、そして遠くに行けてしまうのだ。つらいことだが、理解も連帯も容易ではない。
 ラスト近く、咲歩に続いて月島を告発した小説家の小荒間はこう語る。
 「彼は私の皮を剝いだ。無理矢理(むりやり)に。その皮はいまだ再生されていません。皮を剝がされた体と心は未(いま)だに血を流しています。ヒリヒリと痛いです。どうにかしようとして、上から何か被(かぶ)っても、その下でずっと血が流れているんです。今もそうです」
 私たちはせめてその血と痛みから目を逸(そ)らさずにいよう。小説でも、現実でも。
 香港の人気アーティスト、リトルサンダーによる装画も印象的だ。血を流し苦痛に顔を歪(ゆが)めるのではなく、どこか平気な顔をしている女性。それは、この社会をサバイブする女性そのものだと思えてならない。
    ◇
いのうえ・あれの 1961年生まれ。作家。2008年『切羽へ』で直木賞。著書に『赤へ』『あちらにいる鬼』など。