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没後100年・森鴎外 自虐に基づく複雑な笑い 作家・門井慶喜

鴎外(1862~1922)50歳のころ。旧居跡にある文京区立森鴎外記念館で特別展「読み継がれる鴎外」を開催中=同館提供

 鴎外は笑える。おもしろい。などと言ったら「ほんとか」と疑う向きもあるだろうが、しかし元来、彼の文体は対象と一定の距離を取ること、および人間を情緒よりも言動と状況で描こうとすることに特徴がある。

 ユーモアとの親和性は高いのである。ただその距離を取りすぎることが間々あって、そのとき笑いが冷笑に見えてしまうのだ。

 そんなわけで、ここでは冷笑ではない温かいユーモアのものを選ぶ。わかりやすいのは短編「大発見」だろう。『ちくま日本文学017 森鴎外』所収。若いころベルリンに留学した「僕」は、公使S.A.閣下(青木周蔵らしい)に挨拶(あいさつ)したとき、衛生学の勉強をしに来ましたと言ったところ、

「人の前で鼻糞(はなくそ)をほじる国民に衛生も何もあるものか」

 と馬鹿にされ、言い返すことができなかった。閣下は西洋崇拝者だったのだ。

 だがそれから帰朝して、年月が過ぎて、最近とうとうその証拠を見つけたのである。「僕は謹んで閣下に報告する。欧羅巴(ヨーロッパ)人も鼻糞をほじりますよ」

 この程度のことを「大発見」などと大げさに言うのがそもそも一種の自虐だけれど、この表地(おもてじ)には、結局衛生学では何も発見できなかったという苦い認識の裏打ちがあって、それが笑いを複雑にしている。単なるシモネタではないわけだ。「僕」が鴎外その人をモデルにしていることは言うまでもない。

庶民に翻弄され

 短編「」もまた鴎外その人が主人公といえる。『阿部一族・舞姫』(新潮文庫)所収。こちらは陸軍少佐参謀・石田小介が福岡県の小倉(こくら)に赴任したときの話で、家で雇った別当(馬の世話役)が飼い鶏の玉子をちょろまかしたり、女中の婆(ばあ)さんが米をこっそり自分の家へ持ち帰ったりする。

 なかなか手口も複雑である。だがいちばん楽しいのはむしろそれに対する石田の態度のほうで、軍人らしく動じぬ風でありながら、やっぱり口入れ屋に言って女中を換えさせたり、世間体を気にしたりする。欲深で無知でしたたかな庶民に翻弄(ほんろう)される馬鹿律儀(りちぎ)な国家の要人……さっきの「大発見」もそうだったが、どうやら鴎外の冗談はその基礎のところに自虐があるらしいのである。

冷静なシモネタ

 そうして長編『ウィタ・セクスアリス』(岩波文庫)となると、これはもう全編が自虐かつシモネタ。もっとも、こっちのシモネタは尾籠(びろう)系というより性欲系で、そうなると話の主調は当然「自分はいかに女性と縁がなかったか」になると思いきや、そこを鴎外はさらに徹底させて「いかに性そのものを知らなかったか」にしてしまった。

 知らないものを知るのだから、これは認識の物語である。冷静なものである。でも本来、性欲というのは激情や本能とむすびつくもので、冷静な認識とは最も縁遠いはずではないか。こういう方法的矛盾をまったく解決する気を見せず、平然と話を進めるところにこの長編のおかしみがあるので、ここまで来るともはや文体そのもののおかしみ、鴎外その人のおかしみかもしれない。他の作家では成立し得ない何かがここには確実に存在するのだった。

 さて、私たちはくすくす笑った。鴎外が身近に感じられた。ここで最初の『ちくま日本文学』に戻って「妄想」あたりはどうだろう。老人が人生をふりかえって哲学的に随想するという見るからに難しそうな短編だが、しかし私たちはもう容易に見つけることができるはずだ。そこにも時々ではあるが、たしかに笑いの星のかけらが散っていることを。

 それを飛び石のように踏んで行って案外すらすら読んでしまったら、あなたも鴎外の読者。=朝日新聞2022年7月9日掲載