社会の現実を書いた
雨が降りしきる中、「那須正幹さんを偲ぶ会」に集まったのは親交のあった作家や編集者、親族ら約100人。生前の人柄にちなみ、「那須正幹さんを“明るく”偲ぶ会にしたい」という司会者の言葉で始まりました。累計2500万部を超える「ズッコケ三人組」シリーズの記念すべき第1作『それいけズッコケ三人組』の表紙をイメージして、祭壇は黄色い花で彩られ、遺影をハチベエ、ハカセ、モーちゃんらが囲みます。
午後1時からたっぷり2時間かけて行われた会では、ゆかりの人たちが那須さんとの仕事や個人的な思い出を語っていきました。約4万5000人の会員がいるという「ズッコケファンクラブ」からは、会長を務める飯塚宣明さんと、20歳の大学生・梅田明日佳さんが参加。梅田さんは、那須さんが選考委員を務めた「子どもノンフィクション文学賞」大賞の受賞経験があります。那須さんの魅力を聞かれると、「那須さんが書いているのは理想ではなく、社会の現実だったと思います。それはすごく汚くて、できれば子どもには見せたくないって思う人が世の中にはたくさんいると思いますが、一人の人間として子どもたちと向き合い、全部見せてくださった」と語りました。
「ズッコケ三人組」シリーズの2巻から最終巻までを担当した編集者・井澤みよ子さんは「那須先生は締め切りは守る、完全原稿である、編集者に優しい。そういうすばらしい見本のような作家でありました」と振り返りました。1978年のシリーズスタートから2015年の『ズッコケ熟年三人組』で完結するまで、全61巻を刊行したポプラ社の千葉均社長は「先生はよく、ズッコケ三人組は平和の申し子だとおっしゃっていました」と明かし、「彼らは自分の進む道を自分で切り開くことをやってきた子どもたちだったと思います。その結果がどうなるかは別として、平和な時代に不可欠なものは、未来を自分で選択できること。私たちはズッコケ三人組の世界を守れているのでしょうか」と呼びかけました。
「遺言のような」一冊
3歳のときに広島市で被爆した那須さんは、平和について書き続けた作家でもありました。それを象徴する一冊が『絵で読む広島の原爆』。絵を任された絵本作家の西村繁男さんは「テーマが大きすぎて」しばらく手が付けられず、1年間広島に住み込んで、人々への取材を重ねたと言います。「(原爆投下から)ほぼ50年経っていたので、いろんなものが風化していて、誰でもいいから残してくれという風潮があった。取材するときもいろんな人の思いをもらって作りました。(那須さんは機関誌の中で)この本は『私の遺言のようなものだ』と締めくくっていた。その文章を読んだすぐ後に亡くなられたので、本当にショックでしたね」
俳優の原田大二郎さんは、デパートの喫茶店で那須さんから聞いたという原爆体験を、本人の話しぶりを再現しながら伝えました。「そりゃ本当に恐ろしかったいね。魚屋のおばちゃんが朝来て、庭に立って縁側に座っちょったわしのお母ちゃんと話しよったんよ。わしはお母ちゃんの肩にもたれて二人の話を聞いちょった。ほしたらね、ぴかーって光って、どーんちゅってね。気がついたらその魚を売りに来たおばちゃんが、わしの目の前で姿も形もないんじゃけえね。ありゃ光を浴びて溶けて消えたんよ」
原田さんは「ズッコケ三人組」の映画で共演したことをきっかけに那須さんと親しくなり、互いを「大ちゃん」「まーさん」と呼ぶ仲だったといいます。山口にある那須さんの自宅を何度も訪れたことや、共通の趣味である釣りの話、二人で県内を旅行したことなどを披露。「50歳を過ぎて、こんな大親友ができるなんて」と繰り返し、涙をにじませました。
会の中では、2004年にラジオ番組に出演した本人の肉声を流す場面も。子どもに伝えたいメッセージを問われ、「テーマとかいうのは二の次、三の次で、とにかく子どもが夢中になって読めるものを」と那須さん。「僕は子どもが第1ページ目から最後まで夢中になって読んでくれる、その時間が読書の楽しさであって、それでいいと思うんですよ。『あー、おもしろかった』でいい。このつらい浮世で、2時間でも子どもたちが主人公と駆け回ってくれればね。その時間を人生の中で持てたということが読書の一番の醍醐味であり、それ以外の何物でもないと思ってます」
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