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時を経て再訪する、物語の森 谷崎由依・作家・近畿大学准教授

画・平松麻

 2年前に出産して以来、ろくに本を読む時間がない。大好きなヴァージニア・ウルフの、しかも『』が新訳(2021年刊、森山恵訳、早川書房・2750円)で出たというのに、積んだままになっていた。旧訳での初読は20年前だが、当時は何もわかっていなかったとあらためて読んで思う。6人の人物たちの、交互に繰り返される独白は、彼らの内面の真実を語る。幼い日に寄宿学校でおなじ時をすごした彼らは、その時間が原体験となり、大人になって老いてからも、その感覚をつねにどこかで恋しがっている。それはたとえば林檎(りんご)の木の葉や、水盤に浮かべた花びらであり、何よりも互いを互いと峻別(しゅんべつ)しがたい、隔たりのなかった状態である。幼少期とは多分そうしたもので、わたしの子どもを見ていても、自分と他人との区別が大人よりも曖昧(あいまい)なようだ。体も、痛みも、意識でさえも。そんな摩訶(まか)不思議な状態が、自分にもあった気がすることを、『波』を読むというひとつの“体験”を通して確かに感じることができた。訳者は詩人でもあり、ウルフのもっとも優れた資質である(とわたしが思う)詩情が、あますところなく訳出されている。

 積ん読本はまだまだある。体調が悪かった妊娠中から、買った本はほぼ積まれているが、絵本だけはひたすら読む。何十回も音読させられる。松居直、赤羽末吉『だいくとおにろく』(1967年刊、福音館書店・990円)は40年近くぶりの再読だ。鬼の名前を当てなければ大事なもの(ここでは目玉)を奪われるという西洋のお伽(とぎ)話の型を踏襲しており、調べてみると大筋はどうやら日本オリジナルではないらしいのだが、発見があったのは鬼がその目玉を赤ん坊にやるつもりだったという点だ。松谷みよ子による『龍(たつ)の子太郎』で、太郎は母親の目玉を母乳代わりに舐(な)めて育つ。赤子に目玉を与える系の昔話はほかにもあるのだろうか……などと気になってきたので、柳田国男『日本の昔話と伝説 民間伝承の民俗学』(2014年刊、河出書房新社・2530円)をひらいた。民俗学関係の本は、宮本常一にしても皆たくさん書くなあと思いつつ買っていた時期があり、半分くらい積ん読になっている。本書は事典のように項目が五十音順にならび、例えば姥皮(うばかわ)とシンデレラのように、外国の伝承と比較対照されているものもある。なかでも面白かったのは、眠らずに起きていなければならない「夜とぎ」の際に語られた話というのが「お伽話」の語源だという説や、八百比丘尼(びくに)が食べて不死の体となったと言われる人魚の肉は、そうした夜とぎのひとつである庚申講(こうしんこう)の食物として供されたものであったという話だ。かつて日本のあちこちにいた、ちいさな神さまたちの話に読み耽(ふけ)る。赤ん坊と目玉の関係はわからず仕舞(じま)いだったけれど。

 読み聞かせの本を探していると、それ読めるの何年先?という本にまで手が伸びてしまう。『若草物語』は幼少期に夢中で読んだ一冊だが、アメリカ文学をある程度知ったあとで読み返すと、あ、これ南北戦争やったんや、ということなどがわかって感動する。いろんなことが繋(つな)がる感じがあり、昨年出た斎藤美奈子『挑発する少女小説』(2021年刊、河出新書・946円)をひらいてみる。『赤毛のアン』や『あしながおじさん』など、少女期に通ってきた作品たちが時代背景とともに分析される。家父長制の論理のなかで、少女の冒険を可能にするための物語戦略。女子どもの読み物的に軽んじられることもある少女小説が、じつはしたたかなメッセージを発していたことに意を強くする。そして読了できていなかった作品や、子ども向けのダイジェスト版しか読んでいない作品にも思い当たり、ちゃんとしたのを、と買い込むうちに、積ん読本が増えていく。=朝日新聞2022年7月23日掲載