米国のノーベル文学賞詩人ルイーズ・グリュックに「ユートピア」という詩がある。祖母の元へ行くため列車に乗る少女と、送りだす母のような女性。少女は尋ねる。「この列車で良いかどうしてわかるの?」。女性は答える。「正しい時に来たなら、正しい列車なんです」。汽車の煙突からは黒い煙が噴きだし、車内から奇妙な呻(うめ)き声が聞こえる――。
この線路を、死へ向かう人間の運命や、生まれた環境で規定される人生に喩(たと)えることもできるだろう。私にはウーマンフッドという鉄路のようにも見える。時期が来たら乗るよう促され、結婚、出産、子育てと止まることなく進もうとする列車。
セクシュアル・リプロダクティブ・ライツ――性と妊娠出産に関わる意思決定権は当人にあるというのが、現代における国際合意である。ところが、この合意が近年世界中でゆらぎ、脅かされている。日本よりずっと先を行っていたはずの欧米が逆戻りしてきているのだ。
特に先月、米国最高裁がくだした判断は諸外国にも波紋を呼んでいる。多くの州で中絶が禁止・規制され、レイプによる妊娠や経済的事由も酌量されない場合が出てくる。
一宗派が支配する国で女性が子を産む機械と化すディストピアを描いた『侍女の物語』の作者アトウッドは、中絶禁止は「国が(産む人の)身体の所有権を主張する奴隷制のようなものだ」と述べ、出産を強いるなら、「国が産前、出産時、産後のケアから子育てにかかる費用まで面倒をみるべきでは」と『火急の問題』(未邦訳)で提言している。
*
まさにそういう申し出をする側、される側をリアリズムで描いているのが、代理母出産を題材にした桐野夏生の最新長編『燕(つばめ)は戻ってこない』(集英社)である。リキは29歳の独身女性。派遣職でかつかつの生活は苦しく、自らの生殖機能で収入を得る道を考えるようになる。ついに卵子提供を決意したのは、来年30歳になれば年齢制限に間に合わなくなるから。女性と男性の生殖の時計は進み方が違う。
代理母になる契約を結んだリキは、依頼主から産前、出産時、産後の世話と金銭の面倒を約束され、「止めることのできない列車がとうとう出発した」と感じる。依頼主の40代の妻も「(出産に)『間に合わなかった』と断じられた人」だが、リキと違う点は1千万円で代理母を雇う境遇にあること。ずばり「子宮の搾取」だと言う者もおり、リキは自分を「子産み機械」のように感じるようになる。
『侍女の物語』の侍女と現代のリキたちを隔てる壁はどれほど厚いのか。性差、経済格差による構造的不均衡が痛いほど浮き彫りになる。
作中、依頼主の妻の「母になる意思」が後回しにされている点も要注意だろう。イスラエルの社会学者オルナ・ドーナトの意識調査に基づく研究書『母親になって後悔してる』(鹿田昌美訳、新潮社)が問題にするのもその点なのだ。周りの強圧で結婚、出産したという証言も多く、「レイプ」「奴隷化」などの語を使う証言者もいる。「女性が同意をするが意志に反して子どもを産む場合がある」と著者は指摘している。
*
最後に、米国詩人シルヴィア・プラスの短編集『メアリ・ヴェントゥーラと第九王国』(柴田元幸訳、集英社)を紹介する。プラスは自らの“産む性”と死の影に圧(お)され、英国詩人との間に2児をもうけた数年後、オーブンに頭を突き入れてガス自殺を遂げた。2019年に発見された表題作はやはり列車を表象に用いており、発車間際の汽車に少女が乗りこむ場面に始まる。母親に急(せ)かされた彼女は「いますぐ行かないといけないの?」と尋ねるが、「汽車は待ってくれんぞ」と父親に背中を押される。終着駅のわからない路線、生気のない人びとの顔、降車を必死で拒もうとする女、蔓延(まんえん)する無関心……。隣席の女性は「じき慣れるものよ」と。
人びとの心は凍ってしまったかのようだ。この止まらない汽車を降りるのに残された唯一の手段は「意志を主張する」こと! 非常停止の紐(ひも)を引き決然と降車した少女はあえて「暗い、険しい」階段を選んで登りその先に光を見る。
1952年に書かれた本作に射(さ)した解放の光は、薄れようとしているのだろうか。冒頭に引いたグリュックの詩は、管理されたユートピアとディストピアは表裏一体であることを示している。=朝日新聞2022年7月27日掲載