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「ホットミルク」書評 地中海の光と影 呪縛を解く旅

評者: 江南亜美子 / 朝⽇新聞掲載:2022年09月17日
ホットミルク (CREST BOOKS) 著者:小澤 身和子 出版社:新潮社 ジャンル:欧米の小説・文学

ISBN: 9784105901820
発売⽇: 2022/07/27
サイズ: 20cm/315p

「ホットミルク」 [著]デボラ・レヴィ

 『ホットミルク』との表題から想像されるよりはずっと苦く、アイロニーのきいた小説だ。ただこの苦みは癖となり、あとをひく。
 ソフィア・パパステルギアディス、人類学で博士号取得を目指しながら、母親の介護という喫緊の要請により自分の人生設計を一時中断した25歳の彼女は、いま母親のローズと2人で南スペインの小村にやってきた。原因不明の病で歩けぬ母のため、イギリスで住んでいた家を抵当に入れてまで高額の治療費を捻出し、この地で開業する医師ゴメスの手腕に賭けたのだ。
 ゴメスは謎めいていて、診察のあいだソフィアを追い払う。娘を母親から遠ざけることに意味があるといわんばかりに。長びく滞在期間にソフィアはドイツ人女性のイングリッドを始めとする人々と知り合い、複雑な関係を結んでいく。
 小説は、この女性主人公の内省的な心を解剖するようにじわじわと進む。献身的な娘という役割を長年担ってきた彼女は、一方でギリシャ人の父と幼少期に離別し、姓に残るギリシャらしさにもアイデンティティーの齟齬(そご)を覚えている。真の自分とは何か。この地の強烈な日ざしに唇をひび割れさせながら、おのが身体感覚を取り戻そうともがくのだ。海水浴中にメデューサと呼ばれるクラゲに刺される痛み。部屋に忍びこむ蛇の恐怖。イングリッドとの奇妙な愛着関係……。ゴメスは言う。「よく聞くんだ! きみは別の人生を考えないといけない」
 父を訪ねてアテネまで赴くことは、母親の価値観の内面化(同一化)から脱却する一つの契機となる。年の離れた妹の存在、そして父親の現在の姿を目のあたりにする苦さは、同時に呪縛からの解放にもなる。「急に自分のことがより自分らしく思えた」
 過去を清算し、絶望から抜け出す旅を選んだ女性の確かな変化を、本作は詩的で強度ある文体によって描いた。地中海の光と影が読者をとらえて離さない。
    ◇
Deborah Levy 1959年生まれ。小説家。9歳で南アフリカから英国に移住。劇作家としてキャリアを積んだ。