92歳になったいまも、幕末明治にまつわる文献の山と格闘しながら、週に原稿用紙6枚のペースで執筆を続ける。「読めば読むほど、読むべき資料が増えていく。楽しい晩年のはずが、なぜこんなにしんどいことを続けているのでしょうね」
明治国家をつくったエリートではなく、名もなき人びとが残した日記や書簡などをなるべく選んでひもとく。望むと望まざるとにかかわらず、新しい世の中に適応せざるをえなかった「小さきもの」の視点から、もう一つの近代日本を描き出す狙いだ。
江戸後期、上野国(現群馬県)の農民は〈農家程(ほど)この上に安楽の者はあるまじ……云(い)いたいままの事を云いてすむ者は百姓ばかりなり〉と書いた。当時の農民には、政治権力との関わりを可能な限り避け、「自分を自分の主人として暮らそうとする知恵」があったとみる。
そして明治維新。町人たちは幕末の動乱を〈近い中(うち)に公方様と天朝様との戦争があるんだってなア〉と、まったく他人事でやり過ごしたという。そんな彼らは、やがて国民国家の成員として徴兵され、対外戦争にも駆り出されていくことになる。
「権力を遠ざけて生きてきた庶民が、『仕方がねえや』と言って戦死していく国民になった。人びとが心の内に、自分なりの近代をどう形づくっていったかを知りたいのです」
東京で編集者をしていた若いころ、詩人で思想家の吉本隆明を慕った。通いつめた自宅で聞かされたのは、人は育って結婚し子どもを育て死ぬだけでよい、そういう平凡な存在がすべての価値の基準だということ。「小さきもの」へのまなざしの原点には、その教えがある。
明治末の大逆事件が終着点。いま明治十年戦争(西南戦争)まで原稿を書き終えた。「生きてあと1年か、2年か。さあ、どこまでいけるでしょう」(文・写真 上原佳久)=朝日新聞2022年10月8日掲載