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「Forget it Not」書評 誠実で慎重な人間理解への欲求

評者: 江南亜美子 / 朝⽇新聞掲載:2022年12月17日
Forget it Not 著者: 出版社:作品社 ジャンル:

ISBN: 9784861829376
発売⽇: 2022/10/31
サイズ: 208ページ

「Forget it Not」 [著]阿部大樹

 著者は若き精神科医として臨床しながら、その独自の眼識で再発見した古典的な書物をいくつか翻訳してきた。文芸界隈(かいわい)にも名が知られたのは、H・S・サリヴァンの『精神病理学私記』という大著の邦訳(須貝秀平との共訳)から。多大な時間と労力を要したであろうこの仕事で第6回日本翻訳大賞を受賞し、こんなユニークな若者たちがいる!と話題を呼んだ。
 『Forget it Not』は、精神科医として執筆した論文と、翻訳家として発表したエッセーが一緒になった作品集である。当時の勤務先の病院が戦時下で精神障害者をどう処遇したかを医療史的観点からまとめたかたい論考もあれば、八丈島を一人で旅した際に頭に浮かんだ「普通であることの難しさ」の思考プロセスを書き留めたスケッチのような一編もある。『エルサレム』という小説の著者タヴァレスとの対談では、作家の意表をつく読解を披露し、作品世界の色彩をより複雑化してみせる。
 そんな多岐にわたるテキスト群に共通するのは、忘れることと忘れないよう記述することの逡巡(しゅんじゅん)の跡が残されている点だ。一編ずつに現在時からの補綴(ほてつ)(セルフ解説)が入り、例えば医師として応急処置に当たった「登戸死傷事件」の覚書は半年が経過するまで書けなかったと明かされる。
 なぜ人は言葉でものを書きつけ、薄れゆく記憶を定着させ、他者と共有しようとするのか。おそらく著者の関心の中心はそこだ。『私記』についての一節にはこうある。「伝記は一面では歴史に通じるけれど、しかし個人に関する事実を並べただけでは科学にはならない。どこかで架空の話(フィクション)にする必要がある」
 個人とその記憶の手触りを尊重しつつ、医学(科学)という体系にも寄与すること。アプローチの更新。本書を通してにじみ出るのは誠実で慎重な人間理解への欲求だ。だからこそ著者の書く「妄想論」の続きが楽しみである。
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あべ・だいじゅ 1990年生まれ。精神科医、翻訳家。著書に『翻訳目録』、訳書に『ヒッピーのはじまり』など。