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井田千秋「ごはんが楽しみ」 自宅という領土を大切にする

 本書が愛されるのは、日本社会には「ごはんが待ち遠しい」と思いながら仕事や勉強をする人が少なくなっているからだろう。お腹(なか)が空(す)かない。食事時間が少ない。ダイエットが義務。食事も仕事の一部。そんな社会が深く病んでいることを、逆説的に作者は示している。

 本書は、そういう人たちを癒やすだけでなく、ささやかな行動に駆り立てる大人の絵本である。絵は柔らかくて、細部を大事にし、ぎっしりつまった文の重心は低く、決め台詞(ぜりふ)は意外と鋭い。食べものの細かな描写から作者のくいしんぼうぶりがガツンと伝わってくる。朝のトーストにしらすとチーズを乗せてみたり、祖母の遺(のこ)した古い食器を譲り受けてそこにおかずを乗せたり、いつものポテサラに半熟卵を乗せてみたり、薄めのハイボールと自家製おつまみで家飲みを楽しんだりして、暮らしにちょっとだけ彩りを添えてみる。

 それはつまりセルフケアということ。同じ作者の『家が好きな人』もそうだったが、本書が愛されるもうひとつの理由は日本社会には自分を十分にケアできる人があまりにも少ないからだと思う。現代人の「食事」や「自宅」という領土を、仕事と消費がずいぶんと占領してしまい、自分を大事にする時間も欲望も激減した。愛着のない家。愛着のない食事。愛着のない寝具。低質な睡眠のあと自分を再び苦行に向かわせる。自分を喜ばせるなんて面倒。華やかな女性雑誌が見捨ててきた人たちにも本書は届くかもしれない。

 コロナ禍の反省期間を経て、家は自分の秘密基地なんだと人々は気づき始めた。テーブルも椅子も食器も朝夕のごはんも、もっと自分のためにアレンジしていい。限られた予算と労力で自宅の食事を楽しみつくす作者の極意は、どれも虚飾がないのが温かい。

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 文芸春秋・1760円。24年10月刊。7刷6万8千部。食がテーマのエッセー漫画で、女性の支持が厚いという。担当者は「純粋に『好きなことを語りまくる』という前向きな内容が新鮮に受け取られたのかもしれない」とみる。=朝日新聞2024年12月28日掲載