声に出して読みたくなる時代小説
――時代小説をほとんど読んだことがないのですが、本作は一人語りで書かれていることもあり、とても読みやすくて物語にぐいぐい引き込まれていきました。
時代小説というと「難しそう」「歴史のことを知らないとわからないもの」と思われてしまうことが多くて。それはもしかしたら、地の文で時代背景をはじめ、たくさんの情報を読むことが一つのハードルなのかもしれない……と考えました。そこで今回は、時代小説を普段はあまり読まない人たちに何とかして届けたいという思いもあって、一人語りの形式をとりました。
受験生のときに「実況中継」シリーズという、授業をそのまま先生の話し言葉で書いてある参考書を使っていて、私自身、話し言葉のほうが頭に入ってくるなと実感していたんです。以前、『大奥づとめ(よろずおつとめ申し候)』という作品でも同じように一人語りで書いたのですが、説明が説明っぽくなくなるから読みやすいんですよね。
――仇討ちの目撃者たちに事の詳細やそれぞれの過去を聞いてまわる形で物語が進んでいきます。各幕ごとに語り手が変わり、語り口にそれぞれの個性が強く出ていて、思わず声に出したくなるのも面白い読書体験でした。
盛り込むべき情報とキャラクターを設定したら、テープレコーダーをまわして、キャラクターにインタビューするような気持ちで書いていました。いちばん苦労したのは、殺陣師として芝居小屋で働く武士出身の与三郎でしたね。一人称が「某(それがし)」って、なかなか降りてこない(笑)。逆にするっとしゃべってくれたのが、木戸芸者の一八や衣装係のほたるさん。この二人は早かったですね。
格差社会、親ガチャ……。現代にも似た江戸の窮屈さ
――吉原で生まれ育ち木戸芸者になった一八、幼い頃に天涯孤独になり隠亡(おんぼう※)に育てられて芝居小屋の衣装部屋にたどり着いたほたるなど、本作の登場人物たちのバックグラウンドはさまざまです。執筆にあたって「時代小説だから描ける多様性に挑戦したい」との思いがあったそうですね。※隠亡…火葬場や墓所の番人。江戸時代には賎民扱いされ、差別された。
時代小説や歴史小説というと、武士の物語や政治・戦争の歴史といったものがこれまで多く描かれてきたと思うのですが、切り込み方を変えると全く違う世界が見えてくるんですよね。今回、芝居小屋のお話をと提案された際に、芝居小屋っていろんな人たちが働いていた場所でもあるなと思いました。芝居小屋は当時、「悪所」と呼ばれ、そこで働く人は「河原乞食」などと差別されてもいました。でも、そこには武士や町人をはじめ、芸を愛する多種多様な人たちが集まる場でもあったので、芝居小屋をきっかけとして外側に広がる江戸の世界、当時の江戸の社会が見えてくるかもしれないと思ったんです。だから、あえて登場人物の身分は広げて、それぞれの場所での苦悩があることを描きたかった。窮屈な江戸の社会から解放された何かが芝居小屋にはあったのかもしれないと思って書いたところがあります。
――物語の舞台は江戸時代後期の文化・文政時代(1804〜30年)。浮世絵や歌舞伎など町人文化の華やかなイメージがありましたが、本作を読んで印象が変わりました。いまと同じような閉塞感がそこにはあったのかもしれない、と。
文化・文政年間は、天明の大飢饉(1782~88年)を乗り越えて、経済的に少し立ち直ってきた時代。町人文化も豊かになっていくんですが、そこにはやっぱり貧富の格差が発生しているし、世襲で世の中が回っている部分もあるので生まれで人生が決まってしまうところもありました。いまで言う「親ガチャ」みたいなことです。
でも、そうした窮屈さから抜け出したい、これまでの価値観とは違う別の生き方を模索する人々が現れ始めた時代でもあります。例えば、武士の身分を捨てて各藩の経営コンサルみたいなことをして日本各地を渡り歩いた海保青陵(かいほ・せいりょう)や、武家出身ながら自由な芝居小屋に身を投じた篠田金治のように、自分らしく生きることを考え出す人もいたんです。本作に登場する筋書き(歌舞伎作者)の金治は、まさに彼をモデルにしています。
「正しさ」とは何か
――武士の美徳とされた「仇討ち」が物語の軸になっています。菊之助の仇は自身も世話になったかつての家人、作兵衛。討たねばならないと思いつつも恩義の気持ちや何か事情があったのではないかという思いが交錯する葛藤も描かれていて、美談として語られがちな仇討ちとは違って映りました。
歌舞伎で仇討ちものって人気があるんですけど、仇討ちに対してどこか疑問に思う部分が自分の中にあったんですよね。この仇討ちというシステム、ただの恨み辛み、私怨を晴らすだけじゃ物語にならないだろうし、人々を拍手喝采で熱狂させることだってできないと思うんです。あるとき、若手の歌舞伎役者さんと「忠臣蔵」の面白さとは何かという話になって、彼は「忠義の心」だと言いました。私は「忠義」という言葉に含められている封建的な香りにアレルギー反応が出てしまったんですが、そこで「忠義って何?」と改めて考えてみたら信頼関係のことを指すのかなと思ったんです。そうやって自分なりに「忠義」とじっくり向き合って書いたものが『木挽町のあだ討ち』でもあるんですよね。
当時も現代も、上意下達で社会が成り立っている窮屈さがあるんじゃないかなと思います。特に江戸時代は朱子学が価値観の根っこにあった時代。当時重んじられていた五常の徳「仁・義・礼・智・信」に「忠・孝・悌(てい、目上を敬うこと)」の3つを加えて八徳とされていました。でも、この「忠・孝・悌」の3つは取り違えると「ハラスメント」の原因にもなりかねない曲者だと思っています。前提としてある「仁・義・礼・智・信」なしに「忠・孝・悌」が叫ばれるような、歪(いびつ)な社会構造が出来上がってしまって、それは慣習としていまでも残っている部分がある。一方的に「会社に忠義を尽くせ」というのはパワハラやブラック企業を生み、「親孝行しろ」というのは下手すると毒親になり、「目上を敬え」というのもともすれば圧力となって口を封じ、思考停止になってしまいます。この物語に登場するのは、そうした歪な社会構造によって苦しめられてきた人たちです。自分が望むことや考えていることを口にできているか、心から尽くしたいと思う人に尽くせているのか。そこを無視した忠義や孝行は本当に正しいことなのか。そんなこともテーマの一つになっています。
自分の理屈の外側へ
――正しくあろうとするがゆえに悩み苦しむ人々に、社会的な「正しさ」だけでなく、自分の心の声にも耳を傾けるきっかけをくれる人たちとの出会いがあるのが、救いになっています。
正しくありたいけれどそうできない苦悩って、真面目な人ほど自分だけで抱え込んで自分自身を追い詰めてしまうところがあります。だから、ちょっと見方を変えることって大事です。通りすがりのひと言や相手はおぼえていないような言葉でも、大きな支えになったり、勇気をもらえたりすることがある。人として間違っていない道で自分が信じられる道を見つけられたり、「逃げてもいい」と言ってくれる人がいたりしてくれたら、気持ちがちょっとラクになりますよね。
それと、小説や映画、演劇など自分の理屈や現実の外側にあるものに触れることで救いにつながることもあると思います。自分の理屈の外側の世界を吸収することで、がんじがらめの思考を飛ばすことができる。そういう意味では、例えば「推し活」ってすごくいいですよ。いま自分がいる世界、生活の場とは違う、明るく楽しめる逃避場所があるってすごく大事で、自分にとってのセーフティーネットになると思います。そう考えると、何かにハマるのって、疲れたときや落ち込んでいるときなのかもしれませんね。
――まさに作中では、芝居がそうした役割を担っていますね。
この作品は江戸時代のことを知らない人でもストレスフリーに読めることを目指して書いたと同時に、歌舞伎沼や落語沼、時代小説沼など各種古典沼も仕掛けています(笑)。ちょっと疲れたなというときに寝る前に一節読んでみるかというような気楽な気持ちで、この小説に逃避してくれたらうれしいです。
――時代小説沼、ハマりそうです(笑)。最後に、永井さんが歴史・時代小説を書き続ける理由やその魅力を教えてください。
私って、すごい面倒くさい人間で、ちょっとしたことでもすぐに悩んでしまうんです(苦笑)。そういうときに過去の歴史的な事件などを振り返ると、「こういうときも人は乗り越えていったんだな」と思えて気持ちがラクになる。先のこと、未来のことを考えるときに、解決の糸口やちょっとした救いがほしくて過去の事例を調べるのが好きなんですよね。だって、戦国時代とか、とんでもない環境下でも人って生きてきたんですよ! そんな時代を生きていくときに、当時の人たちは何を光にして歩いたのか。それを探れば、いま悩んでいる自分の気持ちもラクになるんじゃないかと思っているんですよね。過去の中にこそ、解決策なりヒントなりがあるんじゃないかと信じているんです。