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「灰燼のなかから」(上・下) 多角的なまなざしと壮大な語り 朝日新聞書評から

評者: 藤原辰史 / 朝⽇新聞掲載:2023年01月28日
灰燼のなかから 20世紀ヨーロッパ史の試み 上 著者:コンラート・H.ヤーラオシュ 出版社:人文書院 ジャンル:歴史・地理・民俗

ISBN: 9784409510957
発売⽇: 2022/11/24
サイズ: 22cm/408p

灰燼のなかから 20世紀ヨーロッパ史の試み 下 著者:コンラート・H.ヤーラオシュ 出版社:人文書院 ジャンル:歴史・地理・民俗

ISBN: 9784409510964
発売⽇: 2022/11/24
サイズ: 22cm/434p

「灰燼のなかから」(上・下) [著]コンラート・H・ヤーラオシュ

 ヨーロッパ現代史総説というべき堂々たる構え。2巻にびっしりと詰まった全30章合計800ページの中に弛緩(しかん)した文章は全くと言っていいほどない。各章ほぼ24ページに収められていて読みやすく、輪読会にも最適だ。茫洋(ぼうよう)な知識と思考の上澄み、もしくは結晶というべき本書と格闘した長い時間は、私にはかけがえのないものとなった。
 著者はドイツ生まれ。訳者の解説で知ったが、父も歴史学の学位をもつ教師であった。独ソ戦で招集され、ソ連の捕虜への食料配給に関わり、野戦病院で亡くなっている。
 米国で歴史学を学び世界を代表する歴史家となった著者は、人生経験のゆえであろうか多角的な知のまなざしを持つ。共産主義とファシズム双方を「全体主義」に包摂する議論を退け、他方で世界の西洋化を輝かしい前進の物語にもせず、世界に暗黒をもたらした残忍な物語として一色に塗りつぶすこともしない。自由民主主義、共産主義、ファシズムのおのおのの「近代性」がどう変転し、人々を魅惑したり失望させたりしたかをバランスよく描いていく。
 かといって本書は、無思想で単調な教科書的記述ではない。歴史研究者のテーマが細分化するばかりの現状を吹き飛ばすような壮大な語りである。二度の世界戦争や植民地主義やホロコーストの舞台であった二〇世紀前半のヨーロッパの残虐さを上巻で語ったあと、廃墟(はいきょ)の中から紆余(うよ)曲折を経て「民主主義と礼節ある文明」を取り戻しつつある、という復興の物語を下巻で示す。この復興の鍵を、悲劇から学ぶ批判力だとしていると感じた。ここにこそ著者は、米国要人からの「古い」「ひ弱」というヨーロッパへの誹謗(ひぼう)を否定する根拠を見ているように思う。
 もちろん、読者は著者の歴史観をそのまま受け取る必要はない。戦後世界の飢餓、貧困、現代奴隷、環境破壊など構造的暴力に関心のある私は、戦後の欧米による世界の破壊も深刻で、その「灰燼(かいじん)」から世界の人々はまだ立ち上がれていないと考えており、欧州の戦後史を著者ほど明るくは思い描けない。
 むしろ本書の魅力は、見取り図が明快であるがゆえにそんな読者の疑義や異議が誘発されやすいこと。その上で著者は「ではあなたにとっての近代は?」と読者を歴史観の闘技場に手招きする。懐が深い本である。
 文化も社会も政治も外交も、多様かつ肝要な知識をテンポよく得られるだけではない。乱世を生きる人間にこそ必要な歴史観をじっくりと鍛えてくれる。まさに知的鍛錬の道場だ。
    ◇
Konrad H.Jarausch 1941年、ドイツ生まれ。ギムナジウム教育を受けた後に米国に渡り、歴史学を学んだ。米ノースカロライナ大教授。専門はドイツ近現代史・欧州現代史。単著の邦訳は本書が初めて。