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「この世の喜びよ」書評 日常に息づく生の限りなき肯定

評者: 江南亜美子 / 朝⽇新聞掲載:2023年02月04日
この世の喜びよ 著者:井戸川 射子 出版社:講談社 ジャンル:小説

ISBN: 9784065296837
発売⽇: 2022/11/10
サイズ: 20cm/135p

「この世の喜びよ」 [著]井戸川射子

 記憶の堆積(たいせき)は現在の私をどう形作るのか。人はすべての瞬間を鮮明かつ正確に記録するには脆弱(ぜいじゃく)であり、思いもよらぬ瞬間に脈絡なくよみがえるという意味でも記憶は持ち主の統御から逃れ続ける。
 第168回芥川賞を受賞した本書表題作は、ショッピングセンターの喪服売り場に勤める女性が、フードコートに入り浸る少女と言葉を交わすうち、もう子育てを終えた自分の娘たちの幼少期を思い出したり、いつぞやの記憶に不意打ちされたりする様子を繊細に描いていく小説だ。
 特徴的なのは女性を「あなた」と呼ぶ、二人称の語りである。「あなたはここでなら目を閉じていても歩ける」といった、主人公を少し離れた地点から柔らかく包み込むような視点は、読む私たちまでを「あなた」の親密圏へ誘い込む。
 かつては娘たちと通ったショッピングセンター。そこでゆるい交流をもつ、ゲームセンターで働く青年のほがらかさも、その常連客である老人の口の悪さも、生まれ来る弟の存在をうとむ少女のいらだちも、「あなた」の日常に流れ込み、なにかを思い出させる。
 他者との触れ合いがもたらす記憶のリロード。感情のマッサージ。「あなた」は、いま齟齬(そご)を抱える娘たちとの関係をたどり直すことになるのだ。
 「挑むような娘の目を、あなたは一人で見返す。こんな目を向けてもそこにいてくれる人が私にも、若い時にはいただろう、今そんな目をしても受け止めてくれる先はないだろう」
 過去の続きに現在があり、そこであなたも私も誰しも精いっぱい生きているということ。その当たり前の事実のなかに息づく喜びを、小説は決して派手ではないが力強く賛美する。
 「違うんだよ、若さは体の中にずっと、降り積もっていってるの」
 すべての生が肯定される感覚を、普遍に徹して描いた本作。読後は著者の心意気にしばししびれる。
    ◇
いどがわ・いこ 1987年生まれ。詩集に『する、されるユートピア』『遠景』。小説集に『ここはとても速い川』。