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「ひとりだから楽しい仕事」書評 現実を俯瞰して小説と向き合う

評者: 金原ひとみ / 朝⽇新聞掲載:2023年03月04日
ひとりだから楽しい仕事 日本と韓国、ふたつの言語を生きる翻訳家の生活 著者: 出版社:平凡社 ジャンル:エッセイ

ISBN: 9784582839166
発売⽇: 2023/01/20
サイズ: 19cm/233p

「ひとりだから楽しい仕事」 [著]クォン・ナミ

 日本語の本を韓国語に訳している、著者のエッセイ集。三十年で三百冊もの本を韓国語に翻訳してきた著者が日常を綴(つづ)る言葉は、とてもフラットだ。
 呼吸運動でやっと、と公言するほど体を動かさず、主流よりも傍流の方が気楽でいいと言い切り、誤訳に怯(おび)え、「ファンです」と泣かれて自らも涙し、プロフィールに悩み、今日こそは仕事をしようと思っていたのにスマホとインターネットにうつつを抜かし、知り合いに推薦文を断られてショックを受け、と弱いところも情けないところも曝(さら)け出すのだ。
 韓国の翻訳家の支払いシステムや原稿料、時々翻訳本に謎タイトルがつけられる理由、注釈に対する抵抗、日本の本屋に並ぶ本を翻訳したいと思った時のワイルドな交渉術、日本語を見るだけで胸焼けがするほど忙しい時の息抜きなど、翻訳家ならではの情報やシチュエーションも細かく描かれていて、さらには日本のことに関しても、私が知らないような情報が出てきて驚かされる。
 タイトルが本書の方向性と、著者の人格をすでに表している。人との関わりを好まず、永遠に家にいられる、電話が苦手、という著者が、とにかく翻訳だけは好きで堪(たま)らない様子が伝わってくる。そして同時に、著者はどこか現実世界に対してのめり込みすぎず、俯瞰(ふかん)しているようにも見えるのだ。ああだ、こうだ、と考えているものの、ふっとその考えから身を離しじっと離れたところから観察するかのように。そしてだからこそ著者は、誰かの怨念や生き霊、あるいは魂や祈りそのものとも言える、一方的に享受するので精一杯(せいいっぱい)と思えるような小説たちと、そこまで深く関わることができるのかもしれない。
 解像度が高くみっちりと情報が詰まった現実よりも、小説という読者と著者の想像で作り上げられる、余白ある世界で息を大きく吸える人たちに、ぜひ読んでもらいたい。
    ◇
Kwon Nam-hee 1966年生まれ。韓国を代表する日本文学の翻訳家。村上春樹、小川糸らの作品を手がけた。