たとえば、いま目の前に何の変哲も無いコップがあるとする。「ただのコップでしょ、つまらない」で終わってしまう人もいれば、裏から見たら?下から見たら?とあれこれ想像して楽しめる人もいる。どんな些細(ささい)な物事でも、どれだけ奥行きをもたせられるかは受け手にかかっている。
アンデルセンの『絵のない絵本』(1950年、川崎芳隆訳、角川文庫・315円)は、絵描きになりたいと思っていた子どもの頃の私に、そうした想像力がいかに大事かを教えてくれた1冊だ。夢中で読んでぼろぼろな本を、いまだに手元に置いている。貧しい絵描きが、夜ごと自分の所に訪れる月の語る話を書き留めたという短編集。月が照らし出す様々な異国の様子を限界まで想像して、私にはものすごい色の洪水が見えた。
言葉が十分理解できていなくて、読み違えているところがあるかもしれないけれど、自分の中で確かな糧になっているからそれでいいと思っている。読み返したら小さい頃の印象が壊れそうで、ある意味意識的に積ん読をしている。
勧善懲悪や教訓めいたお話が苦手な私は、物語性が強い不思議な作品に惹(ひ)かれる。
学生時代に読んだ『カンガルー・ノート』(1995年、新潮文庫・572円)は、すねにカイワレ大根が生えるとか、入院した病院のベッドが自走して冥府巡りをするとか、主人公が置かれている状況がたまらなく奇妙だ。安部公房最後の長編は言葉遊びも満載で、私が描きたい世界が詰まっている。物語は主人公が人生の終着点まで突き進む話にもなっている。ここ10年ほど、人生の残り時間で何枚絵が描けるかなど死を意識することが多くなっているが故に、この本には余計心を寄せてしまう。
レオポルド・ショヴォー『年をとったワニの話』(2002年、出口裕弘訳、福音館文庫・770円)は、ストーリーが素晴らしい上に、作者自ら描いた挿画もぐうの音が出ないくらい完璧。
仲間を食べて群れを去らざるを得なくなったワニが、タコと出会って恋人になる。彼女の体が魅力的で食べたくなってしまったワニは、毎日足を1本ずつ食べて、とうとう全部たいらげてしまう。いとしいタコがどれだけおいしかったかを思い出し、ワニはまた古巣に戻る。そこで今度は人間にまつりあげられて、供物として若い女性が差し出されるようになる。残酷さ、かなしさ、不条理……。楽しい、美しいといった感情だけでなく、生き物や人生にはこうした性(さが)や感情がセットで存在することを、子ども時代に知るのは大事なことだと思う。
挿絵もテキストも素晴らしい、という点ではディーノ・ブッツァーティ『モレル谷の奇蹟(きせき)』(2015年、中山エツコ訳、河出書房新社・品切れ)もお薦めしたい。
映画監督でもあるミランダ・ジュライは、説明しにくい感情を、とても上手に表現する。読みかけて止まっていた『いちばんここに似合う人』(2010年、岸本佐知子訳、新潮クレスト・ブックス・2090円)は、会ったこともない友人の妹に、本気で恋い焦がれる老人の話など16の短編からなる。
たとえば、一人でいる時間がないとおかしくなる、でも一方で誰かといないと寂しくて仕方がない、というような感情を、きれいに割り切れるものとして片付けない辺りに魅力を感じる。
人生を安易な言葉で狭めるのはもったいなくて、振り返ると雑食と言えるほど色んな本を教師にしてきた。牛のように内容を反芻(はんすう)して絵を描いては、また本を手に取って。その繰り返しで私の日々は積み重なっている。=朝日新聞2023年3月18日掲載
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著書に画集『CIRCUS』など。東京・六本木の森アーツセンターギャラリーで4月10日まで個展。