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音楽を浴びる 千早茜

 去年の年末くらいからあまり本を読めていない。直木賞の候補になり、受賞してから怒涛(どとう)の忙しさだったせいだ。私は自分の文章を書く日に、他人の書いた文章を読めない。慣れない取材が続く日々の中で、家に居られる日を休息か執筆に当てていたら読みたい本の山ができてしまった。このままでは魂が貧しくなってしまう、と手を伸ばすも頭が疲れていて、うまく物語世界に入れない。ならば映画でもと思い、映画ノートを開くと最後に映画を観(み)たのは四ケ月前だった。娯楽の成分が人生に足りない気がして、恋人に観たい映画を尋ねて、すぐさま映画館へ行った。久々の大画面と暗闇は、自分以外の物語に集中する時間をくれた。

 そのまま火が点(つ)いたようにサーカスのチケットを取り、好きなバンドのライブにも行った。コロナ禍以降来日できていなかった「シルク・ドゥ・ソレイユ」の青と黄のテントを目にしたとき、またやってきてくれたんだ、と安堵(あんど)のため息がもれた。ライブはマスク着用の上で声だしが解禁になっていて、三年ぶりに歓声を耳にし、泣きそうになった。

 十代の頃から好きだったCoccoのライブも行った。あまりに好きで、表現が引っ張られてしまうのが怖くて、作家デビューをしたときに彼女の歌を封印したこともあったので、どきどきしながら会場へ向かった。青いステージが赤いライトで染まり歌が聴こえた瞬間、自分が消えた。ただただ憧れの歌姫を見つめていた。彼女は嵐のように歌っていた。自分の全てを惜しげもなく放っているように見えた。それは昔とまったく変わらなかった。放心するように聴いて、眺めて、自分は言葉の追いつかない圧倒的なものが欲しかったのだと気づいた。

 曲と曲の間で、歌姫は二十六周年だと笑顔で話した。十代だった私は四十代になっていて、小説家になって十五年経っていた。もう大丈夫だと思った。素晴らしい表現を栄養にすることができる。音楽を浴びた帰り道はすごく足が軽かった。=朝日新聞2023年4月5日