不惑も半ばにさしかかり、同年代の人に会うと身体の話題になることが増えたように思う。同業の方は肩凝りやぎっくり腰の苦しみを語り、美容に関心がある人はシミや皺(しわ)といった加齢ケアの情報交換をしたがり、食いしん坊仲間の中にはコレステロールの薬を飲みはじめた人もあらわれた。内側なり外側なり、程度の差こそあれ、大きく分類すると身体の衰えについてばかり話している。自分も徹夜ができなくなったとか、酒量が減ったとか、衰えの報告をしてしまう。そして、それがなぜか盛りあがる。友人と別れたあと、もっと前向きな楽しい話題をすればよかったな、と少し後悔する。
衰え程度ならまだいい。大きな病気が見つかってしまったり、少し年上の方が急病で亡くなってしまったりすると、この先、自分の身体には良いことはなく、日々のメンテナンスで悪いことをじりじりと忌避するしか道はないように思われて暗澹(あんたん)たる気分になる。そして、メンテナンスに時間を取られると、健康を維持するために生きているようで、生産性がないのではというネガティブな思考に陥ってしまう。良くない。
先日、雨風の強い日にバスに乗っていたら、おばあさんが二人「ああ、濡(ぬ)れた濡れた」と並んで座った。二人は天気の文句を言いながらも元気に喋(しゃべ)っていた。聞くともなく聞いていると、一人が片方へ「あら、あんた、その帽子いいわねえ」と言う。帽子のおばあさんは「なに言ってんの、ずっと被(かぶ)っているわよ」と返した。「見たことないけどねえ」と帽子を被っていないおばあさんが首を傾(かし)げる。すると、帽子のおばあさんがあっけらかんと言った。「そりゃ、あんた忘れてんのよ。歳だから」。そして、二人ではははと笑った。それ以上、加齢に関して盛りあがることもなく次の話題に移った。
歳だから。衰えのすべてをそう言いきって笑い飛ばせる境地がこの先にあるとしたら、心だけは強(したた)かさと前向きさを獲得できるのかもしれない。それは、衰えても豊かなことだ。=朝日新聞2025年4月9日掲載
