紅茶が好きだ。紅茶に合う焼き菓子があればなお素晴らしい。そんな誘惑に抗(あらが)えず、先日、百貨店で開催されていた英国フェアに行った。
混んでいるよ、と友人から忠告を受けたので、開店前から並んだ。にもかかわらず、整理券を渡され待機し、バターとミルクの香りに満ちた催事場に入れたのは、開場四十分後だった。ミンスパイやショートブレッド、ウェルシュケーキにクランペットといった英国の伝統菓子があちこちのブースで輝いていたが、いかんせん人が多い。催事場をまわるだけでも一苦労だ。人気の店は、買うためにまた並んで待たなくてはいけない。
すぐに疲れてしまい、端に追いやられた。ぼうっとしていると、実演販売をしている白人系の男性が目に入った。作業台いっぱいに粉をひろげバターを混ぜ込んでいる。さっくりと切るような混ぜ方で、スコーンだとわかった。昔、菓子教室に通って習ったことがあったからだ。また自分で作りたいな、大量に仕込むのは楽しそうだ、と眺めていたら、男性が顔をあげた。透明なアクリル板ごしに目が合う。見つめすぎた、とばつが悪くなる。しかし、男性はにこっと笑った。私もつられて微笑(ほほえ)み、人と笑顔を交わしたことで人混みに対する疲弊と恐怖が和らいだ。その日は楽しく買い物をすることができた。実演販売をしている人は他にもいたが、その男性以外は日本人で、目を合わせて笑ってくれたのは彼だけだった。
目が合った時、にこっと笑うのは海外の人が多いように感じる。特に欧米の人だ。タイミングも絶妙で、習慣や礼儀になっている仕草(しぐさ)なのだと感じさせる。笑いかけられると、こちらも笑(え)み返せる。去年、ウィーン旅行をした際、笑顔返しをし続けた私の表情は日本にいる時より柔らかかった。良いことだと思い、日本人相手にも実践しようとするが、どうしても目が合うなり、互いにさっと逸(そ)らしてしまう。なぜなのか。笑顔になれない間合いが存在するのだろうか。最近の謎である。=朝日新聞2025年3月12日掲載
