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ジュリアナ東京の残像 青来有一

イラスト・竹田明日香

 東京の湾岸地区のホテルの4階の部屋にチェックインしてカーテンを開けたら、ふいにモノレールが目の前を通過していきました。シルバーのボディーに黒い鏡面のような窓をふちどった鮮やかなスカイブルーは東京モノレールで、ホテルの裏側を流れる運河のような黒い水をたたえた川沿いにコンクリートの太い支柱が並び、浜松町と羽田空港をむすぶ路線が通っています。「ジュリアナ東京」がその近くにあったことはホテルのコメント欄で知りました。お立ち台で派手な扇子をもって踊るワンレン、ボディコンのスタイルの女性たちの姿はバブル時代のシンボルとして今も時々、テレビに映像が流れます。会場入り口では服装チェックがあり、限られた人しか入場できないといったことなども話題になって、地方暮らしの人間には遠い世界の華やかなカーニバルのようにも感じました。

 1985年9月、ニューヨークのプラザホテルに日本や米国など先進5カ国の財務担当大臣と中央銀行代表が集まり、ドル高の対応のため為替市場の協調介入を実施する「プラザ合意」を決定……といってもなんのことかと思うでしょうが、当時、地方の役所で商工業振興を担当していても、よくわかりませんでした。要するに米国の貿易赤字を減らすため、先進5カ国が協力してドル安に為替レートを誘導するという合意で、実際に1985年に1ドル230円台だった円が、翌年には160円台になって、国内の輸出産業は大打撃を受けることになります。

 円高対策で地元の小規模な事業者に聞き取り調査をしましたが、ビニールハウスのビニールを回収洗浄して東南アジアに輸出している事業者の方が悲痛な顔で頭を抱えていたのが忘れられません。日本経済はもう輸出に頼ってはいられない、内需拡大に努めるしかないとなかばあきらめまじりに語られ、日銀は貸出金利を安くするなど金融対策を実施、そのうちに土地や株式などの投資へとお金が流れはじめたのでした。

 地価や株価は高騰、日本企業がニューヨークのロックフェラーセンターを買ったとか、ゴッホの「ひまわり」を五十数億円で買ったなど一転、景気のいいニュースを見聞きするようになり、都心部では再開発のための地上げが横行、長年暮らしてきた高齢の方が固定資産税に苦しむといった事態になりました。

 新規公開株が当たった友人の親がクルマを買った噂は聞きましたが、金融商品や株式取引などには疎く、ぼんやりしていた人間には無縁のできごとで、高級接待も関係なければ給料が上がった実感もありません。

 政府は投機目的の融資を抑制する政策を行い、今度は土地や建物の価格が下がりはじめ、1989年12月29日に3万8915円まで高騰した株価は、年が明けると暴落します。

 高騰も暴落も庶民の生活実感とはかけはなれ、やはり遠い世界のカーニバルの騒ぎのような感じでした。一部の人々が囲んだお立ち台で、お金が踊っていたということなのでしょう。

 翌朝、駅に向かう途中、ジュリアナ東京の跡地付近を歩いてみました。湾岸の埋め立て地のなんでもない一角、当時の雰囲気はありません。ジュリアナ東京が実はバブル経済が崩壊した後、1991年にオープンして4年ほど営業していたことを今回初めて知りました。景気の「気」は気分の「気」。祭りの後の浮かれた気分だけがお金が消えても、なおも扇子を振って踊り続けていたのかもしれません。遠い日の夜の喧騒はいずれにしてもこの国にはもう残っていないようです。

 近くの公園にはバスケットコートが設けられ、黒いインナーに同じ黒のシャツを重ね着した若い男性が光の中でシュートをくり返しています。

 バウンドするボールの音が乾いた大気に心地よく響く、洗いたてのように爽やかな早春の東京の朝でした。=朝日新聞2023年3月6日掲載