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真実と虚構、二項対立超える物語の力 村上春樹「街とその不確かな壁」を読む 鴻巣友季子の文学潮流(第1回) 

©GettyImages

 話題沸騰中のAIロボット「チャットGPT」は、どれほど正確な回答や文章を作成できるのか? この不安に応えるべくイーロン・マスクが「トゥルースGPT」を開発すると聞いて、村上春樹ばりに「やれやれ」と思ってしまった。そういえば、米国前大統領が作らせたSNSも「ソーシャル・トゥルース」だ。truth(真実)という語の意味がわからなくなってくる。

 トゥルースとは虚偽、捏造、デマなどの対義となるものだろう。では、事実と異なる作り事であるフェイクニュースとフィクションは、どこがどう違うのか?

 フランス作家ローラン・ビネはファクトとフィクションの違いを追究してきた。16世紀の欧州と現中南米大陸の衝突および侵略を描く『文明交錯』(橘明美訳、東京創元社)にも、その意図は見られる。とんでもなく面白い大作だ。

 ビネによれば(「対談 ローラン・ビネと平野啓一郎」)、16世紀のこの頃は「第一次 グローバリゼーション」の時代であり、様々な技術とメディアが発達した。実際、『銃、病原菌、鉄』(倉骨彰訳、草思社文庫)の著者ジャレド・ダイアモンドも、小規模なスペイン軍がインカ帝国に勝てたのは、鉄製の武器、馬による軍事技術、ユーラシアの伝染病に対する免疫を持っており、インカの側にはそれらがなかったからだと分析している。

 

ところが、『文明交錯』ではなんと、インカ人は鉄を使いこなし、馬については「先祖から馬術を受け継いでいて、皆卓越した騎手だ」とのこと。そのうえ免疫も……と弱点をすべてカバーし、インカ帝国のほうが逆にスペインを支配してしまうのだ。

 いわば、歴史改変小説である。よくこんな緻密で壮大なウソっぱちを! と爽快さすら感じるが、では、これは歴史修正主義などとなにが違うのか。ビネは「私はインカ帝国が欧州を支配したと信じさせようとしているのではない。虚構が現実の偽造を始めると危ない」と言っている。歴史修正主義と偽史フィクションの成立原理の違いは、そこに偽りを偽りとして感受するメタ意識が書き手にも読み手にもあるかどうかだ。

        ◇

 6 年ぶりの長編『街とその不確かな壁』(新潮社)が刊行されて話題の村上春樹も、フィクションの力について発言している。自分に都合のいい情報ばかり感受する「確証バイアス」や自己欺瞞に対抗するものとしてフィクションの力を挙げているのだ。

「今のSNSでもそうだけど、みんな自分の好きな意見だけ読むわけね。自分の嫌いな意見には悪口をいっぱい書くわけじゃない。そういうものに対抗できるのはフィクションというか、物語しかないと僕は思ってる」(村上春樹、川上未映子『みみずくは黄昏に飛びたつ』新潮文庫版)。

 『街とその不確かな壁』は、仮象と実体をめぐる書と言えるだろう。 虚と実、夢と現(うつつ)の境を深く追究する。壁、壁抜け、影、図書館、記憶喪失、夢読み、穴、井戸、洞窟、突然いなくなる女性……など村上春樹レパートリー総棚ざらいという観もあり、その点は前長編『騎士団長殺し』と同様だ。

 今回の長編が書かれた経緯とバックグラウンドを説明しておこう。

 本作には下敷となった初期作がある。「街と、その不確かな壁」(1980年、文學界。以下「中編」)という酷似した題名の中編で、いま読むとじつに当世風の寓話的ディストピア小説である。そこで扱われているのは、その後の村上作品を通じて見られる”モダニストの不安”というべきものだ。近代から現代に移る20世紀の幕開け前後から顕現したその不安の背景には、ビネが言うような技術とメディアの急発展がある。急成長する工業、急進する物質主義、急拡大する資本主義。そのなかで消費文化、反知性主義、全体主義、メディアによる監視体制、ファシズムなどへの警戒感が生まれ、ディストピア文学というジャンルの発祥をも促した。村上のこの中編を含む幾つかの作品も、そうしたディストピア的不安の線上にあるだろう。

 3 部構成の新作長編『街とその不確かな壁』は、習作とも言えるこの中編を書き直し(第一部)、「その後」を大幅に加筆した(第二部、第三部)、リベンジ大作ということになる。

 となると、この中編から『街とその不確かな壁』へ移行する際に、拡張・強化・深化されたものを検証すると、作者が初期作から何を”救済”しようとしたかが見えてくるのではないか。重要なものとしては、①主人公の少年と少女の関係性、②境界の曖昧さ・内と外の反転ということがあると思う。

 中編では、いきなり冒頭で「ことばは死ぬ。一秒ごとにことばは死んでいく〈中略〉そしてその死臭はいつまでも僕の体から去りはしない」と、こそばゆいような言葉への疑義と絶望が表明されるのだが、これまた、20世紀初頭にホフマンスタールが『チャンドス卿の手紙』(ホフマンスタール、檜山哲彦訳、岩波文庫)で吐露したモダニストの不安そのものだ。めまぐるしく変容し堕落していく現代社会と言語の乖離に、チャンドス卿は「言葉が腐れ茸のように口の中で崩れてしまう」と表現した(ちなみに、この「言葉への失意」は新作長編では主人公の恋人に引き継がれている)。

 中編の主人公の若い男性は同年代の少女と愛しあうが、彼女によれば、ここにいるのは自分の影にすぎず、本物の自分は「高い壁に囲まれた街」に暮らしているという。主人公は本当の彼女に会いにその街へ。しかし中に入るには「古い夢」を読む「夢読み」になるため、目を損ない、自らの影を切り離さねばならない。

 その街に住む人びとは倹(つま) しいベーシックインカム(食糧)を支給され、壁に監視されながら、完全な秩序と生活の安定を享受している。ところが、ここの人びとには「心」がない。影というのは、人間らしい怒り、嫉妬、哀しみ、迷い、後悔といった暗い感情のことなのだ。主人公は安寧を捨てても人間性を取り戻すため、壁の抑止を突破して元の世界に生還する 。

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 さて、新作長編で大幅に加筆された恋人との関係(①)についてだ。

 主人公と少女の頻繁な文通、会話、キスなどの初恋の内実が書かれている。少女は『ノルウェイの森』の直子を髣髴させる心の繊細な人で、中編では亡くなるのだが、今回の長編ではそれが「突然の音信不通」に書き換えられた。彼女が16歳のまま美化されるのに対し年をとっていく男が、心中の少女に恋々とするさまも描かれる。

 先述の中編は、じつは新作長編の前に一度リライトされて『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』(以下『世界の終り』)の一部に組み込まれている。作者によれば、「(その時点では技量が足りず)自分に書けないところはすっ飛ばしているんですよね」とのこと(朝日新聞 著者インタビュー)。つまり、主人公と少女の交際や、恋人に去られた男の気持ちの行方という「すっ飛ばした」ところを今回加筆したのだろう。

 さらに長編の第二部では、壁の中から戻ってきた「私」の図書館長としての生活、そこでのコーヒーショップ経営者の女性や、不思議な元図書館長との出会い、第三部では壁の中に残った「私」のその後と、新たな決断が書かれる。

 そう、本作で「私」は二つに分裂するのである。

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 中編から引き継がれた問題として、「壁のどちら側が内で外なのか?」「どちらが架空で現実なのか?」という認知論的な問い(②)がある。一般的な感覚でいえば、壁の外が現実世界で、壁の内が架空世界だが、主人公がなにより信じる少女によれば逆で、壁の外=ただの影、壁の内=本物、ということになる。『世界の終り』でいったん後退したこの形而上の問いは、村上作品の中核を成す提題として今回の長編で復活している。第二部で、「私」はこう思う。

「私の記憶していることのどこまでが真実で、どこからが虚構なのか? どこまでが実際 にあったことで、 どこからが作り物なのか?」

 またもやトゥルース(真実)の登場だが、壁の内と外の世界を往還する主人公は、つねに自分は「本体」(実体)なのか「影」(仮象)なのか思案することになる。

 ここに一つの均衡装置として登場するのが、毎日図書館に通ってくる「イエロー・サブマリンのヨットパーカの少年」だ。コミュニケーションに困難があるが、本を読んだ端から丸ごと記憶・転写できる異才があり、主人公の後継者として「夢読み」の仕事につく。中編では主人公は壁の外の世界に帰還し、『世界の終り』では壁の中に留まる決断をするが、この二者択一だった世界観を同時に保管する形で本作は収束するのである。

 上記の引用でわかるように、主人公は「真実と虚構」という対立図式で考えていたところ、これが第三部で補正される。サモアの島の酋長による20 世紀初頭の欧州旅行記という体裁の『パパラギ』(エーリッヒ・ショイルマン、岡崎照男訳、SB文庫)という本が挙げられ、これは偽書なのだと少年が主人公に教える。「てっきり本物だと思っていたな」という主人公に少年がこう言う部分は要注意だ。

「本物でも偽物でも、そのへんはもうどちらでもいいことです。事実と真実とはまたべつ のものです」

 主観で揺るがない事実とトゥルースはべつだという少年の指摘は、あとがきの「要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行 = 移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。僕はそのように考えているのだが」という作者自身の声明によって確定ボタンを押される。

 簡単に言い換えれば、文脈によって変容するのが物語的真実だということになる。だからこそ、物語はひとの「固定」観念というものを揺さぶることができるのだ。

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 村上は一人の作家が生涯で真摯に向き合えるモチーフは限られており、あとはそれを「手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくのだ」とも本書あとがきで述べている。もちろん、作家が同じ主題やモチーフを繰り返し書くことはよくある。とはいえ、愛読者としては、「手」と「品」(舞台設定、プロット、キャラクター、道具立てなど)にもう少し変化がほしい気はする。

「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」に始まり、『ノルウェイの森』『国境の南、太陽の西』『1Q84』『多崎つくると巡礼の年』などで繰り返し書かれてきた「百パーセントの」人間関係の純度や、その濃密なやりとり、大切な人を突然失うこと、深い喪失感、集合無意識などについて、今回深化したバージョンを読めたのはよかったと思う一方、またもや二つの世界の往還で終わってしまったので、「この先が読みたい!」と思ってしまう。

 村上春樹ならではの、純度が高いゆえに死に瀕しかねない閉鎖的関係から主人公が俗世に帰還するという展開は、『ノルウェイの森』における直子から緑との関係への転換ですでに書かれている。『街とその不確かな壁』で後者の役割を担うのは、コーヒーショップ経営者の女性だ。彼女と主人公との関係は今後どうなるのか?

 いい年をした大人同士の完璧でない物語の本編は、『ノルウェイの森』のラストで主人公が緑に電話をかけた後に始まるのではないだろうか。