「文化盗用(cultural appropriation)」という言葉を見かけるようになって久しい。例を挙げれば、セレブ一家のキム・カダーシアンが自らの補正下着のブランドに「KIMONO」と名づけてキャンセルされたケースなど。
この件では「ノー」を突きつけた日本だが、文化盗用への意識はわりあい緩やかだ。古来外国からの文化を取り入れ自国流に翻訳してきた体質のせいか、直接的な領土被支配の歴史がないためか、国内での人種・民族差別があまり表沙汰にならないからか。日本のアイドルのドレッドヘアに外国から非難が轟々と寄せられても、冷めた目で見ているということが最近もあった。
文化は混交しあって新しいものを生みだし、熟成していく。この理念はまったく正しいが、ビジネスをやるなら、黒人カルチャーの迂闊な”借用”は海外、とくにアメリカでは目下猛烈に叩かれるという現実は折り込んでおくしかない。相変わらずへんな日本人を映画に登場させているアメリカがよく言うよ、とは思うけれども。
ここには言論や表現の根幹に関わる表象の問題が横たわっている。文学、映画、演劇、音楽、漫画、料理などなど、なにかを表現する資格はだれにあるかという問題だ。黒人が主人公の物語を白人作家は書けるか?(たとえば、黒人の冤罪を扱ったハーパー・リーの『アラバマ物語』)、障害をもつ人物を健常者が演じることは正当か?(たとえば、失声症状と手話が出てくる映画「ドライブ・マイ・カー」)、戦争体験のないライターが元兵士のノンフィクションを書くのは当事者から声を奪うことになるか? などなど。
この問題は翻訳にも降りかかってくる。つい先週、アメリカの黒人女性の詩人アマンダ・ゴーマンの詩集『The Hill We Climb』(邦訳『わたしたちの登る丘』)が、ある郡の学校図書館で”禁書処分”になるという出来事があったが、この本にも”表象者の資格”の問題はついて回っている。バイデン大統領就任式で朗誦されたこの詩には、各国から翻訳オファーが殺到した。そのなかで、二人の翻訳者が「訳す資格がない」として、訳者の任を降りることになった。翻訳能力の有無ではなく、白人(一人は男性)という属性が問題視にされたのだ。
これを受けてキャンセルされたカタルーニャ語の男性訳者は、「そんなことを言ったら、誰も(古代ギリシャの)ホメロスを訳せない」と遺憾の意を述べた。その通りである。
人間の生を象る表現行為はすべて、他者に成り代わり代弁するという行為抜きには成り立たない。アザーネス(他者性)との向き合いと理解、エンパシーこそが芸術表現の本質ともいえる。
とはいえ、ある文化独自の表現物を使用する場合、使う側が使われる側より圧倒的なマジョリティで、それによって大きな業績や商業収益が得られるような場合は、「搾取」や「奪用」見られても仕方がないだろう。たとえば、フランスのフェミニスト、カロリーヌ・フレストの『「傷つきました」戦争』(堀茂樹訳、中央公論新社)には、アフリカのベナンのブロンズ像を西洋の博物館が利用する行為が「略奪」として挙げられている。
文化盗用への意識は英米圏で強いが、最近はヨーロッパやアジアにも広がっている。続いてフランスから、アベル・カンタンの独白小説『エタンプの預言者』(中村佳子訳、KADOKAWA)を紹介したい。
ちぢめていえば、1960年生まれの古くさいリベラル男がネットで大炎上を起こし、ずたずたになる話だ。しかし、これがアメリカとフランス文学の凝った偽史にもなっていて、抱腹絶倒の面白さなのである。
モノローグの語り手はパリに暮らす65歳の白人男性ジャン・ロスコフ。冷戦史を専門とする元大学教師で、離婚後して独り暮らしだが、まだまだ女性に色気がある模様。ひとり娘のレオニーは企業の社会責任(CSR)を教えるコーチで、レズビアンの恋人ジャンヌと同棲中だ。
物語設定を聞いて、J.M.クッツェーの『恥辱』を想起する読者もいるかもしれない。あの主人公も離婚歴のある中年の白人大学准教授で、いまだ性欲旺盛、娘はレズビアンだった。彼はアパルトヘイト撤廃後の社会規範と意識の転換についていけず、性暴行で大学を逐われるが、反省しない。堕ちるがままに生きよとばかり、突っ張り根性と屁理屈をこじらせていく。
このあたりもジャンはよく似ている。作風はコミカルだが、ネットが介在するぶん、彼へのバッシングは高速で拡散し、可視化される。SNS時代の「ポスト『恥辱』」と言えるかもしれない。
マルクス主義の用語しか知らないビール腹のこのインテリ男は、1980年代にSOS人種差別(反人種差別NGO組織)とアラブ人の人権デモに参加したことが自慢で、「人類は大きなひとつの種族だ」という万人救済主義をいまも信じ、ブラック・ライヴズ・マター運動に対して、「オール・ライヴズ・マター」と言いそうなお人だ。
そこに立ちはだかるのが、超woke(意識が高い)でラディカルフェミニストのジャンヌ。ジャンは彼女が駆使する「インターセクショナリズム」「声の強奪」などの言葉が理解できず、ジャンヌに解説書をもらっても読みもしない。「白人特権」の何たるかが未だに飲みこめない白人の、異性愛者の、男性の像が容赦なく諷刺される。
そんな彼がジャンヌとの出会いで奮起し、夭折の詩人ロバート・ウィローについての研究書『エタンプの預言者』を書きあげる。ウィローはジャズを愛する共産党員で、1950年代に吹き荒れたマッカーシズムから逃れて渡仏し、サルトルやカミュ、リチャード・ライトらと親交を深めるが、やがてエタンプという小村に引きこもり、中世詩人みたいな武勲詩を書くようになる。
作家や学者が実名で多数登場するので、ウィローも実在の詩人かと思いきや、まったくの架空人物(だと思う)。ローラン・ビネ『言語の七番目の機能』(高橋啓訳、東京創元社)や、川本直『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』(河出書房新社)あたりを好む向きにはたまらない仕掛けだろう。
このウィローだが、本の途中であることが明確になる。黒人なのだ。ジャンの研究書でも何回か言及されているというが、ウィローの人生を熱く語るジャンは、彼が黒人であることに重きを置かない。人種という括りをほどく方が真の平等に近づくとすら思っている。この姿勢に対してあるブロガーが疑義を呈したことから、バッシングの炎が燃え広がっていく。
白人の元大学教師が黒人の声を奪った!
レイシストめ!
これは文化の盗用だ!
といった声がネットに溢れかえる。「文化の盗用」ってなんだ? ジャンヌがくれた本に解説されていたのに、ジャンは読んでいなかった。
この小説が非常に巧妙なのは、ある意味、読者も”騙して”いることだ。ウィローのモデルには、この時代にパリでサルトルらと交友していた白人の作家や、ビートニク詩人あたりを部分的に使っているのではないだろうか。まんまと白人だと思って読み進める人はいそうだ(邦訳書では裏帯でばらされているが)。
じつは何箇所かで、「あれ?」と思わせる地名や学校名が出てくるのだが、フランスの一般読者でその大学がHBCU(歴史的黒人大学。南北戦争後、人種隔離政策により大学に入学できない黒人のために設立されたのが始まり。トニ・モリスン、カマラ・ハリスらの母校)だとすぐにわかる人は少ないのではないか。日本でも同じく。そう、作者のカンタンもジャンと同じく、彼が黒人であることにうっすら目隠しをしており、ふたりとも「信用できない語り手」の気味がうっすらある。作中の「エタンプの預言者」と、本書『エタンプの預言者』は相似形をしているのだ。
やがて、ジャンを擁護した極右の文化パトロンに、彼がtwitterで礼を言ったことから、炎上は加速し、実生活にも危害が及ぶ。それでもジャンは、ウィローは白人に同化しようとした黒人ブルジョワ階級の父に反抗し、ネグリチュード(négritude)を謳うべしというサルトルとも袂を分かち、「ひとりの人間」であるべく真の自由を追求したという見方を固持する。最後に衝撃の”事実”が……!
じつにしたたかなラストだ。ちなみに、巻頭の献辞には「頑固おやじどもに捧ぐ」と記されている。
『エタンプの預言者』とかなり趣は違うが、作品主題が通底する恩田陸の『鈍色幻視行』(集英社)もぜひ紹介したい。小説の映像化を題材にしている本作も、ある意味で「創造と盗用」ということを深いところで論じているからだ。もちろん映像化は盗作でも剽窃でもないが、ある箇所にこんな言葉がある。原作をもとに映画を「撮る」ということは「取る」に通じるのだ、と。
クリスティーの『ナイルに死す』のように、豪華客船という密室で謎ときが行われるが、殺人事件が起きるのではない。解かれるべき謎は、数度の映像化がことごとく関係者の死で頓挫し「呪われた小説」と称されている小説「夜果つるところ」と、飯合梓という幻の作家だ。この小説と作者に魅入られた十二人が一堂に会し、数々の不審死と作者の正体をつかもうと議論をする。この作業はそれぞれの老いとの対峙に繋がっていく。
映画を観ることは、頭のなかに個々人の映画を投射することであり、観客のほうが映写機になっているのだと、ある作中人物は言う。映画を観ることは撮ることでもあり、本を読むことは書き換えることでもあるだろう。十二人は心のなかで自分なりの「夜果つるところ」を撮/取/盗ろうとする。読者の前に立ち現れる『鈍色幻視行』という物語も、それにつれて変幻するだろう。創造のオリジナリティとは、オーサーシップとはなにかを問う重量級のメタミステリーである。